楢本神社
ならもとじんじゃ


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【由緒】

楢本神社
創立 天武天皇4乙亥年(675)
祭神 伊邪那美尊・菅原道真・応神天皇・少彦名命・住吉三神・春日四神
地番・面積 宮丸町1 4,637u
由緒沿革
延喜式神名帳に載る式内楢本神社は伊弉冉尊を祭神とし、「大宮宝の宮」の後身であると伝えられている。
大宮寳の宮はその昔、宮丸町新田「オオクボ」の地に鎮座し、現在はその旧趾に石碑が建てられている。そして白山修験者と思われる寳誓坊が嘉祥2年(849)まで、その後を吉本坊がそれぞれ社僧を勤めていたと、楢本神社歴代神職録に出てくる。特に吉本坊あるいはその次の社僧などが、大宮寳の宮から式内楢本神社への発展に大きく関与していたように想定できるようである。
その後、元暦年間(947〜957)に至って、比楽川の氾濫により社殿を流失し、「タチヤブ」の地に遷座したと伝える。下柏野町楢本神祉も宮丸同様に式内楢本神社流失説をあげ、今の地に遷座したという。ただ同社は昭和年代に至るまで祭神不詳とされ、一説に天見屋根命ともいうとの口碑があった点が大きく注目される。これから考察すれば、式内楢本神社は比楽川の氾濫で流失し、その後、宮丸舘社・下柏野現社地にそれぞれ二分された形で故事を伝承してきているようで、舘社の方がやや年代的に早かったように考えられる。正徳3年(1713)の十村文書写によれば、宮丸村、楢本神社、伊邪那美命・子安十一面観音。米永村、稲荷宮。上柏野・小上村、乙靭宮。荒屋柏野村、白山宮。下柏野村、楢本神社・十一面観音で、この六か村は山島郷宮丸庄であると記され、上道氏庶流の宮丸氏、米永氏、柏野氏それぞれの支配地であった名残りを鮮明に残しており、宮丸庄は、白山信仰による元の式内楢本神社を原点にしていたことを明白にしている。
舘社から現社地「御供田」の地に遷座したのは、長久の頃(1040〜1044)と伝えられ、神勤する別当が明らかになるのは、慶長(1596〜1615)に至ってから、天台崇本山派修験者の持宝院が歴代神勤し、明治に至って高畠紋左衛門参久の高畠姓を称した。宮丸地域内無格社は、明治40年に合祀され現在に至っている。

『ふるさとの杜』松任市役所1990.10



【由緒】

楢本神社の由来
中世前期における手取扇状地帯にある本村の一部をその支配下においた領主上道氏の譜系に見られる宮丸四郎大夫氏明(1220年)及びその系類(三浦遺跡の研究〉を考えても理解出来ると思うが、不安定ながら少年期を迎えた宮丸の荘では当り前の如く神様を祀り人々は生活の大きな支えとしたものであろう。
以下楢本神社の起りから村に伝わっている文献を中心に紹介する。
住吉三社大神
祭神 伊邪那美命 菅原大神
応神天皇 春日四柱大神
「 由緒 天武天皇四乙亥年の創立なり、始め大宮宝社と称して、楢木一、上柏野、下柏野、米永なりしと言へり、然る後延喜年中楢本神社と改称せり、式内神名帳に、加賀国石川郡楢本神社一座と載せられたるもの即ち是なり因に記す、旧社地境内に幹の周り弐丈余なる楢の木ありしを以て、楢本神社と改称せられし由、旧記に見えたり、而して往古は許多の社領を有し、本国中著名の神社なりしと言へり、天暦年中比楽川(今の手取川)大いに氾濫し社殿為に潰水の毀つ所となれり、今即ち其の遺跡悉く田畑となり、又其の旧跡に石碑あり、於是御神休を仮に同村(即ち宮丸)なる館の社(今の館藪と言ふ所は其の遺跡なり)に鎮座し奉りしと雖、数十年間復興するの時機至らず、式微茲に極れりと言へり、長久の頃に至り、村民相謀りて社標をとり、更に一祠を建立して此に遷祀す、即ち今の社地是なり、之より先天台宗の宝誓寺吉本坊をして該社の別当たらしめたりといへども、茲に至りて更に社司を置き、之を掌らしむ、又往古此の村に、館社、住吉社、春日社、金戸社、天神社、と称して五箇の小社ありしが其の後是集め丸めて、鎮社せり、
社格
村社より郷社に昇進明治29年3月
郷社より県社に昇進明治34年10月

『石川県一木村誌』1975.11






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