風土記の「彌太彌社」に相当する。 所造天下大~の御子和加布都努志命が、天と地が初めて分かれた後、天つ~の御領田の長として奉仕された。このク中にその~が住まわれていました。だから、〔御田を見る~ということにちなんで〕三太三(みだみ)と称した。~亀3年(726)に字を美談に改めた。 境内社のうち彌陀彌神社の二社は、風土記にいう不在神祇官社の「彌陀社」の十二社を合祀するものであるという。風土記にはミダミノヤシロと称する社が在神祇官社に二社、不在神祇官社に十二社あり、そのうち在神祇官社の「彌太彌社」すなわち式の「美談神社」は当本社であり、「彌陀彌社」すなはち式の「同社比売遅神社」は本社の配祀神となつているが、まだ他に不在神祇官の十二社というものがあるので、それがこうして境内社として祀られている。 境内社の県神社・伊波神社はともに式内県神社・印波神社の後身とされている。 |
由緒 延喜式神名帳に美談神社と記し、出雲風土記にも彌太神社と記している。又、天保4年(1833年)の出雲神社巡拝記にも美談村の条に記に云う(風土記)彌談彌神社、式に云う(延喜式)美談神社とし「祭神はわかふつぬしの命なるべし」とある。巡拝記によると「建長年の頃(1249〜1252)佐々木次郎左エ門泰清の七男広田頼清のころ八幡宮を勧請せらぬと聞きぬ」とあるので、当国守護職塩冶氏の系累によって勧請されたものであった。されば武家時代においては、その蔭に古代以来の在地の守護神がかくれたまうのも、またやむを得ぬことであった」と記されている。つまり建長年間になって彌談彌神社がうしろにかくれ、表面に八幡宮が出てきたのである。 明治5年に村社に列せられた。寛永13年(1636)未曽有の洪水によって斐伊川が東流し、これによって美談郷が分断され、斐伊川の北側が万治2年(1658)年以来楯縫郡に属することとなり、明治22年市制、町村制によって国富村の一大字となり昭和26年平田市と合体し、30年市制施行によって平田市美談町となった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |