出雲国風土記の「佐太御子社」に相当する。 現在では本殿が正殿・北殿・南殿の三殿に分かれており、この三殿で祭神の合計は12座となつている。 本来その神名はただ「佐太御子神」であろう。 現在の神社側の公式見解では、正殿の主祭神である佐太御子大神とは猿田彦神のことであるとしている。 「式内社調査報告」では風土記のころは現在地より2Km神名火山(朝日山)の麓にあったとしている。 一般に旧暦の10月は「神無月」だが、出雲地方では全国から八百万(やおよろず)の神々が自分の社を離れてやってくるので「神在月(かみありづき)」ということになっている。月の前半を出雲大社で、後半をここ佐太神社で会議するという。 式内社の宇多紀神社を本殿に合祀し、式内社日田社、式内社垂水社が境内社としてある。 かつて佐太神社には「御井神社」と称する神社が合祀されており、式内社であると称されていたが、現在は合祀されているか否かも不詳。 |
由緒 佐太神社御由緒 御祭神 北殿 天照大神、瓊々杵尊 中殿 佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉之男命 南殿 素盞鳴尊、秘説四座 御神徳・沿革 当社は出雲風土記に、佐太大神社あるいは佐太御子社とあり、三笠山を背に宏大な3殿が相並び、千木高く御鎮座になっているので佐太3社とも称えられている御社である。 主祭神は佐太大神、日本海に面する加賀の神碕潜戸にご誕生になり、古の狭田国開拓の祖神であり、出雲四大神の一柱として崇められ、家内安全、交通安全、五穀豊穣、地鎮、海上安全、厄除等の諸願成就の神として古来深く信仰されてきたのである。 くだって、延喜式では、佐陀大社と記され、出雲二宮として仰がれ、後宇多院御領目録によれば佐陀神領7百貫、鎌倉将軍家御教書によれば佐陀神主領2百80町歩とあり、出雲国内諸社の間に特殊の地位を占めてきたのである。 御社殿 御本殿三宇は各々通殿があり、通殿によって各中門に接続し、中門は翼廊によって互いに連結され、この翼廊より本殿左右を囲む透塀は社後の三笠山に衝き当たってとどまる。 本殿は三殿並立で、中央が正中殿、向かって右が北殿、左が南殿いずれも大社造りで、このような豪壮な三殿構えは平安末期に成立したようであり、他に類例を見ないもので、神社建築史上特筆すべきことである。 現在の御社殿は文化4年の造営であるが、その様式は元亀年間の造営を踏襲してきたもののようである。国の重要文化財に指定されている。 文化財 彩絵檜扇、龍胆瑞花鳥蝶文彩絵扇箱、色々威五十八間筋兜、色々威胴丸、色々威腹巻(以上重要文化財)蛭巻薙刀、野太刀、舞楽面、鰐口、線刻十一面千手観音鏡像、着彩阿弥陀来迎図鏡像、御供台(以上県文化財) 佐陀神能 御座替祭、例祭に執行する神事芸能で、その起こりは極めて古いものとされ、出雲流神楽の源流といわれている。剣舞、散供、清目、御座、勧請、手草、八乙女の七座よりなる採物舞と、祝言としての式三番、そして大社(佐陀)、真切目、恵比須、八幡、武甕槌、日本武、磐戸、三韓、八重垣、荒神、住吉、厳島の12座よりなる当社を始め諸社の縁起を演舞する神事舞からなっている。国の重要無形文化財に指定されている。 摂末社 田中神社 御本社北殿の摂社で、西社は木花開耶姫命を祀り縁結、安産。東社は磐長姫命を祀り縁切、長寿の信仰がある。 北四社末社 本殿北側に座す、山王社、宇智社、玉御前社、竹生島社。 南四社末社 本殿南側に座す、戸立社、振鉾社、垂水社、天神社。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
佐太神社 佐太神社御由緒略記 当杜は島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内に鎮座になり、出雲国風土記(天平5年=733)に、佐太御子社もしくは佐太大神社と記されている古い神社で、境内地一万参千余坪に本殿、直会殿、舞殿、神門および数字の摂末社等の諸建造物を有し、本殿は、三殿並立の大社造り(国指定重要文化財)である。祭神は、正中殿に佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉之男命、事解男命、北殿には天照大神、瓊々杵尊、南殿には素蓋鳴尊、秘説四座の神々が祀られている。主祭神佐太大神は、世にいう猿田毘古大神で、出雲国風土記によると加賀の神碕に御誕生になり、佐太地方一円の祖神であり、古来福神、導の神として、交通安全の守護神、船玉神、海上守護の神、寿守の神、地鎮の神として世上の信仰深く、清和天皇の貞観年中には従四位下に叙され、後鳥羽院の頃には神門に勅額を揚げられたと伝えられる。また、後字多院の時には神領七千貫で、神職二百二十四人と定められていたという。延喜式(延長五年=九二七)には佐陀大社と記され、また出雲二宮と仰がれて出雲国内諸社の問に特殊の地位を占めて来たのであります。 佐陀大社御神事帳を始め、社記古縁起によれば、当杜年中の祭祀は七十五度あったといわれるが、そのうちの主なものは次の諸祭祀である。2月15日の管粥祭、これは、粥占の神事で、籾種を授与するので一にお種祭ともいい、管に表われた小豆粥の詰り具合で五穀の豊凶をトする。 5月3日の直会祭、この祭典は直会殿の神事を主とする所からこのように呼ばれ、やぶさめ神事、猿里二番舞、直会神事、獅子舞等を執行する。5月20日より25日までの神在裏月祭、7月15日のお田植祭、9月24日の御座替神事、この神事は19日より斎戒沐浴日夜勤行の後、24日夕刻摂末社より次第に御座替式を奉仕して南殿、北殿、正中殿に及ぶもので、25日は幣帛を奉って祝賀のお祭りを行う。また、両日ともに夕刻より七座神事、能神事を催す。これは剣舞、散供、清目、御座、勤請、手草、八乙女の七座よリなる採物舞である。そして能神事の十二段があり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。11月20日よリ25日までは神在祭である。これは10月を一般には神無月というが、出雲国だけは神在月と称している。現在11月の祭礼は旧暦10月を陽暦に改めたものである。社伝によると、正中殿の御祭神伊弉冉尊の神去ました旧暦10月に八百萬の神々が当社に参集されるので、幟も立てず、神楽もあげぬ厳粛な物忌がなされるところからお忌祭とも云う。この祭には神迎え神事、注連口神事。神等去出神事、船出神事、止神送り神事、柴刺神事、宿借神事等があるので、古来当社を「神在の社」とも云っている。また、この祭りに必ず龍蛇の出現ということがある。物忌佐太の龍蛇といえば広く人口に介錯した奇瑞であって、火難、水難を始め一切の災厄を除去し、農作、商売、魚漁の福祉を守護する霊物として信仰されている。これが年毎時を変えず神在の浜すなわち佐陀の浦辺に現れ当社に納められる。 古歌に 出雲なる神在月のしるしとて龍蛇の上る江積津の浜 御宝物に、色々威胴丸、色々威腹巻、色々威五十八間筋兜、彩絵桧扇、龍胆瑞花鳥蝶文、彩絵扇箱、(以上重文)、蛭巻薙刀拵、野太刀、舞楽面(陵王)、線刻十一面千手観音鏡像、着彩阿弥陀来迎図鏡像、御供台、(以上県指定)等がある。 尚、当社附近には、佐陀講武貝塚(史跡)、佐太神社前弥生式遺跡、古浦弥生式遺跡、志谷奥銅剣、銅鐸出土地、古城跡、身澄池、神ノ目山、伊弉諾浜、苗松、神出島、加賀潜戸、お的山、佐陀奥院成相寺等々の当社ゆかリの地がある。 由緒書 |
佐太神社 当社は出雲國風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、延喜式(えんぎしき)には出雲國二ノ宮と称され、出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。 中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。 江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。 また、旧暦8月24日・25日の御座替祭(ござがえさい)にはこの佐陀触下の神職・巫女が参集奉仕する慣わしで、この祭で舞われる神事舞が出雲國内をはじめ他の里神楽に大きな影響を与えたとされ「出雲神楽の源流」とも云われています。 明治3年、神社制度の改革が行われこの触下制度は廃止となります。51社あった末社もそれぞれが村々の氏神として独立し20ばかりとなり、神領、神職とも大幅に減じ著しく衰退しました。しかし、佐陀宮内の氏子はじめ神領6ヶ村の旧氏子、その他多くの崇敬者による復興運動により、昭和3年国幣小社に列せられました。 戦後は佐陀宮内地区の氏神社となっていますがその由緒・歴史から近郷諸所の惣氏神としてはもとより全国各地から広く信仰を集めています。 様々な歴史的困難にもかかわらず、本殿三社をはじめ、国・県の指定文化財も多数有し、古伝の祭祀を守り受け伝えている点において神道学、民俗学等の面からも注目を置かれているところであります。 公式HP |