佐太神社
さたじんじゃ


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【由緒】

佐太神社の創建は不詳ですが、垂仁天皇54年(西暦25年)4月に信仰が始まったとされ、養老元年(717)に太政官符の命により社殿が再建されています。天平5年(733)に編纂された出雲国風土記には「佐太御子社」、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には「佐陀神社」と記載された古社で、「三代実録」によると貞観元年(859)に従五位下、貞観9年(867)に従五位上、貞観13年(871)に従四位下に列し、後鳥羽院より「正一位佐陀大明神」の勅額を賜い古くから出雲国二ノ宮とされ、出雲國三大社(出雲大社・熊野大社、又は出雲大社・日御碕神社に佐太神社を合わせた3社)に数えられていました。
中世には社領700貫、2百80町歩、最盛期には社領7千貫、神職224人を擁し、江戸時代末期には末社51社を抱えました。豊臣政権下では弾圧されましたが、江戸時代に入ると歴代松江藩主が崇敬庇護し堀尾吉晴が社領200石を寄進し、貞享年間(1684〜1687年)には松平綱近によって社殿が造営されています。松江藩では領内の神社を2区分に分け組織化しましたが、特に格式が高い美保大明神・大野高宮・日御崎大明神・平浜八幡宮・須佐大宮・横田八幡宮は単独で藩の支配下となり「一社一令社」と呼ばれ、それ以外の出雲国10郡の内、島根郡・秋鹿郡・楯縫郡、意字郡西半分の神社の統括は佐太神社が行い、残りは出雲大社が行いました。明治時代初頭に松江藩から祭神を明確にせよと通達を受け、秘説一座を示したところ「猿田彦命」に決められそうになり「佐太御子神」として決着しました。その後も祭神が定まらず佐太大神となり最終的に佐太御子大神となりました。古くか神仏習合し「佐陀大明神」や「佐田大社」と称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により社号を「佐陀神社」に改め明治5年(1872)に郷社、明治7年(1874)に県社、明治14年(1881)に「佐太神社」に改め昭和12年(1937)に国幣小社に列しました。祭神:佐太大神。配祀神:伊弉諾尊、伊弉册尊、事解男命、速玉男命、天照大神、瓊瓊杵尊、素盞嗚尊、祕説神、祕説神、祕説神、祕説神。
本殿は正中殿、北殿、南殿の三殿で構成され(このような社殿配列は平安時代末期頃に成立したとも云われています)、何れも文化4年(1807)に再建されたもので、大社造、桧皮葺、このように大社造の本殿が三殿並立の構えは佐太神社以外に類例が無く附として棟札3枚、指図板1枚と共に昭和57年(1982)に国指定重要文化財に指定されています。神門(神社山門)は切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門。
佐太神社の文化財
 ・ 佐太神社正殿・北殿・南殿−文化4年−国指定重要文化財
 ・ 色々威胴丸(兜・大袖付)附 鎧唐櫃1合−室町時代−国指定重要文化財
 ・ 色々威五十八間筋兜−室町時代−国指定重要文化財
 ・ 色々威腹巻(兜・大袖付)−室町時代−国指定重要文化財
 ・ 彩絵檜扇・龍胆瑞花鳥蝶文扇箱−平安時代−国指定重要文化財
 ・ 佐陀神能−国指定重要無形民俗文化財
 ・ 舞楽面(陵王)−鎌倉時代−鳥取県指定文化財
 ・ 蛭巻薙刀拵−室町時代−鳥取県指定文化財
 ・ 鏡像 方鏡著彩阿弥陀如来来迎図−南北朝時代−鳥取県指定文化財
 ・ 円鏡線刻十一面観音坐像−鎌倉時代初期−鳥取県指定文化財
 ・ 大野太刀−室町時代初期−鳥取県指定文化財
 ・ 大野太刀−南北朝時代−鳥取県指定文化財
 ・ 黒漆御供台(3基)−南北朝時代−鳥取県指定文化財
 ・ 鰐口−嘉吉2年−鳥取県指定文化財

公式HP



【由緒】

第八章 佐太神社
当社は松江駅より乗合自動車で25分、市の北郊より15分の処、即ち八束部佐太村大字佐陀宮内及び同郡講武村大字名分(佐陀名分)の両地に跨つて御鎮座の御社である。御祭神は佐太大神を主祭神として配祀の神々を合せて十二柱を奉祀し、大社造三宇の本殿を並建て、古樹蔚然なる御笠山(不老山とも足日山とも鶴山ともいふ)の麓に、宍道湖より恵曇湾(佐陀裏)に通ずる運河(この運河は天明7年清原原太兵衛が、風土記に見ゆる佐太川によって開鑒拡張した)たる佐陀川を帯にして、千古の神域を作つてゐるのであります。正殿(中殿)十八尺四方高さ四丈五尺、北殿(左殿)十五尺四方高さ四丈、南殿(右殿)同上。境内四千百六十七坪。外に境外保安林の接続地を加へると一萬九百四十四坪に達し、その山姿林相の鬱蔚として原始的なること、境内社殿のよく古式を保持せるごは、殆ど他に匹敵を見ないところで出雲國の神社を研究せんと欲する者には必ず見逃す能はざる社の一であります。
さて御本殿三社に祀る所は、
左殿 天照大神 瓊々杵尊
中殿 佐太大神 伊弊諾尊 伊弊册尊 事解男神 速玉男神
右殿 素戔雄尊 月夜見尊 蛭子尊 熊野大神 大穴持命
右の御祭神の十二座は、御本殿三社と共に伊弊冉尊の信仰に基くものでありますが、そのうちで配祀の神々については姑らく省略に從ふとして、中殿に坐す主祭神の佐太大神は、神魂命の御子なる枳佐加比比売命の御子神で、同郡加賀村、古の島根郡加賀郷なる神崎の窟で御誕生あらせられた盆荒男神であります。その御誕生の御時からして、既に弓箭の奇瑞があり、後、狭田国を領して秋鹿郡神名火山の麓に大宮造りし給うたことは、出雲風土紀に詳かな所であり、この地が早くから開けてゐたことは、山陰第一の佐陀貝塚の存在によつて明かであります。(この貝塚は社前を流るる佐陀川に沿うて下ること三町の所にあり、史跡として指定されてゐる)然るに社傳によるとこの大神は、記紀や古語拾遺等の古典に於いては、猿田彦大神と見えてゐるのであつて、乃ち猿は佐・狭等と同じく、サの假字であり、田は陀とも太とも多とも書くのが、皆タの假字であり、彦は毘古とも書けど、単なる男子の美称で、故らな意味はないのだから、猿田彦の大神即ち狭田大神また佐太大神であると申します。從つて別の御名を岐神と称して、大国主神に代つて武甕槌神経津主神を喬導し給うたこともあつたが、天孫降臨に際つては、天八衝に候して、これを日向の高千穂峯に啓行し奉り給うたのであります。即ち我が國土の国津神を代表して最初に天孫を迎へ奉らせ給ひ、次で塩土神と現はれては、彦穂々手見尊並に神武天皇に海路の導きを奉仕し給ひ、遂に天照大神の御鎮座のため伊勢に到って倭姫命を導き奉つた後、乍ちにして御身を隠し給ひ。毎に功をなしてその功に居らず、勲を建てて求むる所なき所謂臣民道の範を示し給うた大神であります。されば後人これを景仰して道は天照大神の道であり、教は即ちこの大神の教と申して、歌の祖神と仰ぎ、且つ古典の上でも特に大神の称を用ゐられ来つてゐる所以であります。
次に当社の御由緒を賂述すれば、当社は神名火山の麓に佐太大神の社が坐すと風土記に見えてゐるのに相當する神社であらまして、社伝によると、垂仁天皇の54年夏4月に社殿が創建されたと申して居るが、ここで、天神地祇八百萬の神々の祭祀を伝へて神在祭を奉仕し來つたのは、風土記の時代より相当遡るべきものと考へられます。乃ちこれによつては、当社を『神在社』ともいひ、遂に他國にての神無月を出雲國でだけは、神在月と称するに至つたものであります。この神在祭はもと旧暦10月の11日から25日まで執行つたもので、その祭祀が齋戒を主とする所から、俗に『お忌祭』とも云つて居るのであります。近来は大陽暦に改めて、11月20日の夕に神迎神事を執行して、大前を隔てて注連縄を曳渡し奉つてから、25日の夜半その注連の口を切開いて、神送神事を執行ふまで、六日間に亘つて、数多の古傳の神事を奉仕することになつて居ります。それに多くの古俗も残つて居り、佐陀浦へ龍蛇出現の奇瑞が年々変らず現はれて来るのは、世人の普く知るところでありませう。
さて平安朝以降における当社の位置は、当社が所謂出雲の二宮と称せられたことが、何より手短かな説明であります。勿論二宮といふやうな制度は平安朝の初期からあつだわけではないが、その能く二宮たり得た実力は、既に備つてゐたと見ねばならぬ。けだし、御神階にしても数度の御昇叙によつて、貞観13年11月10日には從四位下に到らせられて居ります。その後のことは、国史に紀載を欠くので、明確には云へぬが、後鳥羽院の御時、極位の勅額を賜つたと傳へて居ります。出雲國で御神階のある神社は必ずしも少くはないが、熊野・杵築の両社を除いては、当社がその次に位するのであります。さればこそ一宮が熊野から杵築に移るに及びては、当社は諸社の上に立つて二宮と仰がれたのであります。又社号に於いては、古くは『佐太大神社』とも「佐太御子社』とも見えて居るが、延喜式に至つて「佐陀大社』と記されて居る。この式の制度には大社小社の区別があるが、それは弘仁貞観式の制定された頃に既に快定されたことで、その後異同を許されなかつたものであり、從つてその後の盛衰に対しては社号を以つて補はれたかの観があるのであります。乃ち延喜式において、往々存する某大社の号はこれであつて、わが佐陀大社は國幣小社であるけれど、杵築大社と共に大社号を以つて稀有の存在を示してゐるのであります。これやがて当社が出雲二宮として隠然たる位置を占むるに至つたことと合考へて、意義のある所以と申さねばなりません。尤も後世に至ると、他にも私称の大社号を称する神社が数々現はれて來たし、江戸時代に入つては、當社も佐田又は佐陀の文宇を用ゐたのであるが、明治3年までは兎に角終始一貫佐陀大社と號して來たのであります。然るに、御一新の改正によつて、同4年から佐陀神社と称することとなり、同14年以来文字を佐太神社に改めて今日に至つてゐるのであります。
それから社領に在つても、亦よくこの事実があらはれて居ります。すなはち上代では風土記に見ゆる秋鹿郡「神戸里」がこれに當ると思はれるが、庄園時代になると、早くからこの神戸里が発達して神領の佐陀庄が出来た。固より当時この庄園がいかなる規模のものであつたかは窺知すべき資料を有たないけれど、神祇官永萬記によると、當時出雲國から神砥官へ年貢を貢進した神社は出雲大社と当社との二社だけで、その両社ともに米を貢進して居ります。尤も出雲大社の方は貢進米の高を脱してゐるが、当社は米三十石を貢進したことになつてゐる。恐らく出雲大社のはこれ以上であつだであらうが、この永萬記に見ゆる神社は皆當時の第一流の神社に限られてゐたものと思はれる。しかもそれらの多くは米・絹・糸・布・藁・莚・炭・薪・紙・紅・漆・黒金・貝・鮑・馬・牛等であつたが、その数量においては須波社の布干反、下野宇豆宮の上馬二疋等の外では、米は十五石を出でず、紅や綜は百両、藁薪は二百束、莚は百枚、紙は二百帳を出でぬといふやうな程度であつたから、從つてその教量の記載を欠く出雲大社は姑らく舎き、その他の神社と比較しては、山陰道は勿論、全國を通じても一流に数ふべき盛大な御社頭であつたと推知されるのであります。さうしてこの当社神領内に出来た佐陀表が出雲莚と称せられて、朝儀に使用せらるる打敷又は畳表の料として、延喜式を始め、平安朝の物語・日紀に屡々散見するに至つたのも自ら故あることとせねばなるまい。けだし当社神領内の内でも特に、佐陀宮内・佐陀本郷及び古志の一部の如きは、その土性が自ら藺苗の栽植に適するのであつて、そのため現にかの備後表をも凌ぐ良質の藺莚を産出しつつあるのであり、かくて後にも記すやうに当社の御座替祭の起原もここに発するに至つてゐるのであります。往時、この祭に方つては、出雲國十郡の社家が悉く参集してその神事に奉仕したと申します。さうして鳥羽法皇が佐陀庄を以つて、所謂三代御起請の御料庄園にお定め遊ぱさるるに及んでは、社頭の勢力も愈々増大したものでありませう。その区域も秋鹿・島根両郡に跨つて、文永の頃には三百四十町二反歩の神主領があつたことが見えてゐるのであります。
學説によると、狩猟関係の祭事の存する神社は、狩猟期に出来たものであり、農業関係の祭事の多い神社は農業期に創建されたのであり、商業関係の祭事を専ら行ふ神社は商業期に勧請されたと見られると云はれてゐるが、当社に於いて、現に2月(もと正月)15日御種祭、一名管粥祭を執行し、7月15日の(昔は12月21日・22日・23日の夜祭)田植祭を執行し、また代満祭・里見祭・神在祭等を執行してゐるのは、少くとも神戸里以来佐陀庄等の農業繁榮を祈るべき時代を経過し来つた名残と見るべきであらう。しかるに、豊太閤の時、天下の庄園が壊滅するや、当時七百貫あつた佐陀庄もやはりその姿を消したのであります。乃ち江戸時代には両郡旧領の内から百石宛を合せて二百石を寄進されることとなり、外に神在祭の幣挿場として、附属地二十八ケ所の山野海島等が残つたのであるが、松平氏は後両度に亘つて五十余石の加増寄進を行つたので、それでもなほ当國では杵築日御碕に次ぐ第三位の社傾を有したわけであります。而してかの二十八ヶ所の附属地は、皆旧神領佐陀庄の内に在り、この旧神領の地は、當社を大氏神と仰ぐ氏子区域として存したのであります。そのだめこの区域内に在つた51社の末社は、皆當社の社家によつて奉仕されたし、当社4月の直曾祭(現今では5月1日より同3日にかけて執行してゐる)は秋鹿祭・島根祭といつて、両郡の氏子が交替に、年番奉仕の例となつてゐるのであります。乃ちこれは垂仁天皇54年夏4月当社御造営に起原すると伝へ、祭典の際に執行ふ古傳神事にもそのことが現はれてゐるのであるが、その祭典の形式は御頭祭の意味の存する氏子祭であります。
翻つて又社殿境内の規模について見る時、元来往昔は一社であつだもので、それが平安末期には既に今のより若干大きい三社の御本殿の並立を見たのであるが、想像される所では、一宇本殿の時代の、御本殿の大きさは、略々三宇本殿時代の御本殿の全部を合せたものより小さくはなかつた。さうして掘立柱であつた。これらは種々の史料によつて考へられる所であり、また堀河天皇の寛治の頃には大神の宝殿に三社の若宮神殿があり、更に竃殿等の社殿が存してゐた。この竈殿の信仰は平安期の特色であり、それがやがて庁舎として當國有数な古社に伝つて居る。当社の庁舎は即ち長庁とも直會殿とも御供所とも称して来たものであります。而してこの寛治年間には御造営も行はれて、この時、朝廷より五明の御筥を御内陣に納めさせられた。此は佐陀大社縁起にも屡々その名が見えて頗る重要視されてゐる所で、その他多くの御神宝と共に、今に傅つてゐる天下稀有の宝器であります。
その後応安・文安・元亀・寛永等の御造営を経て現在の御社殿は松平綱近の奉仕にかかる貞享4年の御造営に成るもので、境内の様子も惣ての社殿の布置も殆どこの時から変りはないと云へませう。それを見ると、啻に社殿の大さにおいて出雲國第二位の大社造たるのみならず、かの社殿の布置・境内の形式も旧社家の組織及びその居宅の位置等惣て出雲大社の模倣縮図であります。例へぱ社家は長官に正神主・権神主があつて、神社の両側に屋敷を構へ、神主の下に別火が居り、次に上官が五人、中宮が三人、社人が十四五人居だ。それも室町時代以往は七十余人の社家が居り、後宇多院御領目録等に見ゆる神宮寺は七坊あつて最も勢力を有し、鰐淵寺と共に戦国群雄のため黒衣の参謀をつとめた奥院の成相寺は、十二坊あつて後までも榮えたものであります。当社の神佛分離は延宝年間であつて、貞享の御造営の結果は、残る所なく■臭が払拭されたわけであるが、佐陀大社線起や真言宗成相寺(当社奥院)等に残る古文書旧記によつてその概要は想像される。それによると護摩堂の本尊仏は薬師三尊であり、他に御祭神伊弊冉尊の本地仏として阿弥陀信仰の痕迹も見らるるやうである。しかし、現在の境内が−−例へば御本殿が御笠山下の中央正位に在らずして、左端に片寄つて御鎮座になつて居り、その御神前から真直ぐに伸んだ賽路は、左右を神田としてゐる古風ののまま存してゐることや、御笠山の中央下なる正位には、上古の神祭の旧迹たる磐座を存して、今に最も神聖なる地域とされて来てゐることは滋にに千年の古そ意をさながら伝へて、■風の外に屹然たりし姿が見らるるのであります。
なほ毎年の御弉替祭に出雲十郡の神主祝部が参集して、七座神事を奉仕した制度が、改めて三郡半の制度に推移したのは室町時代からであります。この三郡半の社家が当社へ奉仕したことは、大庭における意宇郡神人社家奉仕の神事の例などから併せ考へる時、これは出雲大社と当社との間に存した云はば一種の入會権が、整理区分された結果と見るべきであつて、十郡の神社及び社家の内、六郡半のそれが出雲大社即ち所謂杵築御社頭に付随し、残る三郡半のそれが当社、即ち佐陀の社頭に附属するにつたものであります。而して杵築佐陀の両社頭の下には、各郡内に幣頭があつて幣頭年寄を補佐役として幣下の社家を統括して居た。これは明治3年藩令を以つて廃止さるるまで続いて行はれたものであるが、実に出雲における社家制度の一大特色であり、従って当社の一大権威であつたのであります。
さればこの三郡半社家の制度の由来について考察することは、出雲国の神祇史上にも重要なことと思はれるが、管見によれば、元来出雲国の式内神社はすべて出雲国造の統括する所であった。否、恐らくは式内社のみにとどまらず、式外の神社も悉くさうであったであろう。しかし、各神社には古来皆それぞれ祝部が附属してゐたのだから、結局はその祝部を国造が統括していたことになる。処が、時代が下るにつれ、自ら有力な神社が台頭して来て、その統括外に出るやうになった。佐陀や日御碕がそれであります。美保・須佐・高宮・平濱八幡・富田八幡・馬場八幡等の所謂「一社一礼」の社といふのも亦これであります。しかも佐陀大社に平安朝に於いて杵築大社に亜いで最も有力な神社であつた。つまり出雲国の二宮であつた。従ってその御座替祭(現今の例祭)は当国の大祀として、出雲十郡の社家神人が残らず出掛けて行つて奉仕することとなつてゐるものであり、さうしてこれは遂に当社の特権となつたのでありませう。さうすると国丙惣神社及び社家支配権を握つてゐた杵築大社の権利の内へ、かかる別の新しい権利が割込んで来たわけで、云はば出雲十郡の神社々家に対して、杵築佐陀の両大社の入曾権が生じたのだとも見らるるわけであります。然るに入會権には紛争の生じ勝なることは、古来の歴史の示すところであります。勿論今日かかる紛争の迹を物語るやうな史料の存在することも見ないけれど、少くとも、かかる弊害の生ぜんことを恐れた識者の手によつて、その支配区域を分割して六郡半と三郡半とに区別し、以つて入会権を廃するに至つたものではあるまいかと考へられます。乃ち六郡半杵築社頭の支配下の社家は、単に支配を受けただけで、別にその社頭に対する勤仕の義務とてもなかつたやうであるが、三郡半佐陀社頭の支配下にある社家にあつては、毎年の御座替祭に方り、必ず参勤して七座神事を奉仕せねばならぬのであつた。これがつまり当社の往古における入会権の名残と考へられるのであります。且つこの神事を天下国家の御祈祷といつたと見えてゐるが、要するに以上の如きは、三郡半制度の起原に対して試みた一考察にすぎないけれど、それが當社の出雲國の二宮たる具体的説明の一例とするには十分であらうと思はれる次第であります。
処でこの七座神事は、畏くも宮中賢所において執行はれ来つた御神樂の探物舞と、起原を同じうし性質を同じうするものであります。しかもかの内侍所の探物舞は、後世殆ど絶えてしまつたが、当社のそれは山陰の僻地に依つて今も残存なし得たものとして、貴重な舞踊史料たることは近来識者の認むる所であります。ただその舞伎古朴なるを以つて、後世の時流に投するに足らず、仍つて慶長の交に至り当社の神樂司の上官等は、能樂の神能に準じて所謂佐陀神能(十二殴)を創始したが、これも亦近来に至つては、大衆の嗜好に遠ざかつた古典的のものとなつたので、世上ではその分化発展した形態のものが流布して、中國地方神事舞の主流をなしてゐることは、夙に世人の知る所であります。さうしてこの七座神事及び佐陀神能は、從前は8月24日の御座替神事の夜と望25日の法樂とに行はれだが、現今では陽暦9月25日の例祭の夜に當社附属の伶人によつて執行はれてゐるのであります。乍併、当社の七座神事及び能神事が此の如く流布傳来しえたのは、歴代国司領主等の保護によるのでありまして、それは社蔵の古文書等に明かな所であります。蓋し当社はすでに記し來つた如く、当國有数の名社で、此等国守領主の崇敬は特に著しかつたのであります。故にその寄進にかかる宝物什器の類にしても、甲冑刀劒等を始め、鎌倉時代以来各時代に亘つて夥しい数に上つてゐるのであります。
それから当社の社家朝山氏は、大伴氏より出でたるも、また勝部氏を称し、神門都朝山郷を苗字の地として当國の國司に任じ、又佐陀庄秋鹿分の地頭職を勤め、その間一族に景連(備後守護職)、師綱(梵灯庵)、善茂(日乗上人)、素心(意林庵)等を出した。そこで社家としては兼神主と称したが、近世以降正神主と改め、現宮司(晒)に至るまで四十三代相続し来ると傳へて居ります。

神国島根






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