大井堰川北岸に鎮座している。
和泉五社の一、日根野荘の惣社とされている。 創立についてはいくつかの説がある。 伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのではないかとされている。 日根神社は、日本唯一枕・寝床の守護。全国でも珍しい“枕”の神社。安眠祈願に訪れる人が多い。 毎年、5月の日根神社例祭「まくら祭り」は、のぼりに色とりどりの枕をつけて村々を巡行する特色ある祭りである。 |
由緒 日根神社は大井関大明神と称して、延喜式や国内神名帳にも名がでている古い神社です。神社の創建にはいくつかの伝承があります。 (一)神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまりとします。 (二)神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力し共に帰ってきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと。現在は日根神社摂社)で、この神社が日根神社のはじまりといわれます。 (三)樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。慶長7年の日根神社縁起由来には「当社大明神ハ古三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子ニテ」とあり、この説をとっています。 (四)天武天皇の時代に大鳥神社より分霊を勧請し神殿を造ったのがはじまりといわれます。 伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのでしょう。そして大鳥神社などと共に和泉国を代表する神社になっていきます。 (一)奈良時代716年(霊亀2年)、河内国より和泉国が分かれた時、大鳥、穴師、聖、積川、日根神社を和泉五社とし、井上大明神を五社合祭の総社とし、720年(養老4年)に五社の神輿を総社に集め盛大な祭りをおこないました。 732年(天平4年)に大旱魃がおこり和泉五社に降雨祈願が命じられ、その効果があって、神領6800石が与えられ、その内500石が日根神社に分けられたとされています。 905年(延喜5年)に延喜式が施行され、その神名帳に記載された神社を式内社といいますが、泉佐野では比売、日根神社とともに加支多、火走、意賀美神社が式内社となります。 (二)鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり、溜め池や水路がつくられ開発が進み、日根神社は大井関大明神の名で呼ばれるようになります。1316年の日根野村絵図には溜め池、耕地、集落のほかに大井関大明神、溝口大明神、丹生大明神、蟻通大明神が描かれています。 (三)南北朝の動乱の時代になると、この地方の武士である日根氏も守護方に加わり戦いに参加し、すぐ近くの土丸城は南朝、北朝の争奪の城となり、何回も合戦がおこなわれます。1353年(正平8年)には兵火により社殿がことごとく焼かれました。しかし二年後に再興されます。 (四)戦国時代の1500年ごろ、大井関大明神で盛大な祭礼がおこなわれていることが、日根荘の領主九条政基の日記「旅引付」に書かれています。戦国時代末になり、日根神社は朱印地(500石)を受けますが、織田信長、豊臣秀吉は統一のために根来寺や一向宗徒を攻撃します。日根氏は秀吉に従います、そのため1576年(天正4年)に兵火により炎上します。1585年(天正13年)には秀吉により神領地が没収されました。この年より和泉五社の神輿会合は中止されます。しかし、その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社では岡本村の船岡山への神輿渡御が始まったとされています。 (五)1600年(慶長5年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興します。これが現在の本殿です。1687年(貞享4年)岸和田藩主岡部美濃守は水田一町余を寄進します。春の祭礼で幟の行列が船岡山まで華やかに渡御します。 (六)現在は日根野、上之郷、長滝地区の総社となっています。これらの地区の人たちは、それぞれの地区の神社(野々宮、意賀美、蟻通神社など)の氏子でありながら、日根神社の氏子であるという二重氏子となっています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
府指定有形文化財 日根神社本殿一棟 昭和47年3月31日指定 日根神社の創建は明らかでないが元正天皇霊亀二年(716)に制定された和泉五社のろちに数えられ、また延喜式内社日根郡十座のうちに列している現在の本殿は社伝によれば、天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものといわれる。 向拝.縁側廻りに修理の部分が認められるか細部の手法はよく桃山時代の特徴をあらわし・斗供など見るべきものがある。社殿としては比較的大きな部類に属し堂々として雄大な風格を示している。 昭知59年3月 日根神社 大阪府教育委員会 社頭掲示板 |
郷社 日根神杜 祭神 葺不合尊 玉依姫命 祭神に關して数説あり、風土記には饒速日命を祀るとし、渡曾延経神名帳考証には加具土命を祀るとし、而して泉州志及神祇志料には、日根造の祖新羅國人億斯富使主を祀るとす、創祀は孝徳天皇白鳳2年にかかるといふ(社記)、一説聖武天皇朝創祀といふ(名勝地志)、清和天皇貞観元年5月官社に定まり、同年8月從五位下を授け給ふ(三代実録)、醍醐天皇延喜の制小社に列し、祈年祭鍬靭一口を加へ奉る(延喜式)、當時結構甚壮麗にして輪奐の美を尽し、当国五大社の一に数へられしが、後村上天皇正平8年3月此地兵戦の巷となり、神殿、拝殿、廻廊等悉く破壊し、為に8月15日の五社会合の祭礼に決りんとす、依て他社の神官等之を官に訴へ、官符頻りに下り、辛うして神輿を國府に発するを得たり、同10年8月覚豪阿闍梨請うて之を再興す(泉州志所引、東草集当社修造願文)、織田信長の判物神領五百石あり、豊臣秀吉之を没収す、正親町天皇天正13年兵火にかかり社殿悉く焼失す、後陽成天皇慶長7年豊臣秀頼社殿を再興す、之れ現今の社殿なり、俗に当社を大井堰明神といふ、古來日根野荘の産土神たり、國内神名帳云、正一位一岡社なりと、明治8年郷社に列す、境内1500坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿其他神輿庫、廻廊門を備ふ、社の南に大井關川あり、西流して海に注ぐ、両岸岩石起伏し、奔瑞之に激し水声湯没たり、因に記す、當地は古來数行幸ありし所にして、殊に近畿の猟場として有名なる所なりとす。 明治神社誌料 |
日根神社 鍬靱 日根は郡名に同じ〇祭神分明ならず、(風土記に饒速日命、社家説に葺不合尊、玉依姫といへり、)〇日根野庄日根野村に在す、(和泉志、式社考)今大井関明神と称す、(泉州志、和泉志、式社考、)〇今俗当國五社第五と称す、(式社考)〇永萬記云、大井関社、○総國風土記第廿九残欠云、日根郡日根神社、所祭饒速日命也、皇極天皇2年癸卯2月、自官奉圭田二十五束、〇日本紀、允恭天皇8年2月、衣通郎姫奏言、妾常近王宮、而昼夜相続欲視陛下之威儀、然皇后則妾之姉也、因妾以恒恨陛下、亦為妾苦、是以■離玉居而欲遠居、若皇后嫉意少息歟、天皇則更興造宮室於河内茅淳、而衣通郎姫令居、因此以屡遊■于日根野、』日本紀略、延暦22年10月壬午、藤原縄主為装束司長官、為幸和泉國日根野、同23年10月丙午、至和泉國、丁未、狩城野、日暮御日根行宮、庚戌、狩日根野、」続日本後紀、承和8年9月庚戌、以河内國丹比郡駅家院倉八宇屋二宇、遷建当郡日根野、 神位 官社 三代実録、貞観元年5月7日壬戌、和泉國比売神列於官社、同年8月13日丙申、授和泉國無位比売神從五位下、○國内神名帳云、正一位一岡社、 連胤按るに、貞観の官社神位に比売神とあるは、諭なく、比根神の誤なるべし、然るは当社、今も国内五社ど崇めし大社の一にして、和泉郡聖神社同日同等の宜を競ふれば、此処に比売神社の加はるべき由縁なく、転写の誤なる事決したり、(旧府神社の同日同等の宣は、元國府にますが故に、当時五社同様にありしにや、)故に畏くも、今の印本実録、比売神とあるを比根神と改む、(古本を得て訂さぱ明かなるべし、)日根を比根と書しは風土記に例あり、抑当國においては、五社旧府及巻尾(式外)を限り、国史の中に叙位の社なし、然るに比売神のみ加はるべき由縁なき事、かく推算へて見れば明かならずや、然るを先達等、元の誤りを糺さずして、種々に臆断をな志し苦み思ひやられたり、又按るに、一岡社といふ事は、他書には考へ得ねども、外に符合すべき神社なし、依て式社考に倣うて爰に附属す、さて國帳に、正四位下日根社とあるは同名別社なるべし、 氏人 日木紀雄略天皇巻に、日根造稻城、(全文日根郡の條見合すべし) 神領 式社考云、信長御判物神領五百石、秀吉公没収、 雑事 東草集当社修造願文云、(泉州志所引用)大井関大明神、泉州五社其一而、虚往実帰益日新、朝祈暮賽禮年旧、然正平8年3月兵戦交境、軍旅卜隣、神殿拝殿宝塔鐘楼経蔵廻廊楼門瑞籬荒垣末社等尽破壊矣、故欲関8月15日五社會合祭礼、抑当國五社會合祭禮、從古未曾有関一社之例、依除社神官訴之官符頻下、柾奉発神輿於國府矣、正平10年8月日依覚豪阿闇梨請神(今厭本文繁処々略之、) 神社覈録 |