泉井上神社
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   【延喜式神名帳】泉井上神社 和泉国 和泉郡鎮座
          (摂社)和泉神社

   【現社名】泉井上神社
   【住所】大阪府和泉市府中町6-2-38
       北緯34度29分13秒,東経135度25分40秒
   【祭神】神功皇后 仲哀天皇 応神天皇 (配祀)応神天皇従者四十八柱
        (合祀)菅原道真 素盞嗚尊

       当社本来の祭神を窺わせる資料・伝承はない。
       当社の創建が和泉清水にかかわることから水神との推測されるが不詳

   【例祭】 10月10日 例大祭
   【社格】旧府社
   【由緒】神功皇后が半島より帰還した際に霊泉湧出
       天平宝字元年(757)河内国から泉国分離。「五社総社」を当社の東に奉齋
       養老4年(720)隼人の乱で奉幣
       天平4年(732)大旱で奉幣祈雨
       正平、明徳、天正の時代には一万石の社領
       織田信長は当社の所領を1200石とする
       天正13年豊臣秀吉によつて所領全部を没収
       慶長10年(1605)豊臣秀頼によつて当社・五社総社再建
       明治3年8月天災のため社殿大破
       五社総社の神殿を取毀し、祭神を当社に移して、「泉井上総社」と称した
       明治5年(1872)村社
       同28年5月31日また分れて両社併立
       同40年1月神饌幣帛料供進社に指定
       明治41年10月26日再度五社総社を併せ、境内社として現在に至る
       同12月8日字御館の村社「和泉神社」を合祀
       大正7年5月20日郷社
       昭和8年9月6日、府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】鎮座地の移動はない

   【祭祀対象】泉
   【祭祀】江戸時代は「四十八神宮」「井ノ八幡」「井戸ノ森八幡宮」と称していた
   【公式HP】 泉井上神社
   【社殿】泉井上神社の本殿は和泉大社造 和泉五社総社の本殿は三間社流造茅葺
       幣殿・拝殿・神饌所・手水舎・神門・社務所・神輿庫

   【境内社】

天平宝字元年(757)河内国から、かつて和泉監のおかれていた大鳥、和泉、日根の三郡が分離して和泉国ができ、その国衙が当地におかれた。
この時その東傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神を祀った。
境内に和泉清水史跡がある。元々は泉を神聖視しての祭祀場であったと思われる。
 神功皇后が半島より帰還した際に一夜にしてわき出したので、これを瑞兆として霊泉とよび宮を設け、そのほとりに社殿を造営したと伝わる。
泉は昭和30年代に涸れてしまったという。



由緒

上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。
神武天皇はご東征をお祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位2年(200年)4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまつりなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2年(716年)ここに和泉監を置き、この土地が国府となり、地方政治の中心地となりました。その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。
ご社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大巨橘諸兄の子諸貞より代々祭主職国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有しました。中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行っています。正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇をうけました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又楠朝の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内ひろ過ぎるとして一部を残し上地されています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




泉井上神社

和泉国総社 和泉井上神社
御祭神
総社 和泉大明神(独化天神)
   天照大日霊貴尊 天忍穂耳尊 天瓊瓊杵尊
   彦火火出見尊 うがや草葺不合尊 御諸別命
和泉国六二座
本社 神功皇后 仲哀天皇 応神天皇 従者四十五柱
(四十八神宮、水内宮又は小竹宮という)
縁起
上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。
神武天皇はご東征をお祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位2年(200年)4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまっりなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2年(716年)ここに和泉監を置き、この土地が国府となり、地方政治の中心地となりました。
その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。` ご社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大巨橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有しました。
中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行っています。
正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇をうけました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内ひろ過ぎるとして一部を残し上地されています。
史跡 和泉清水・国府庁跡(現お旅所)・南朝戦死者の碑、和泉宮(元正、聖武天皇離宮)・小竹宮(神功皇后離宮)総社本殿(重要文化財) 古記録 後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇論旨・国宣
信長朱印状、今井宗久添状・秀吉朱印状・口宣案その他
配祀社 事代主神社・大国主神社・菅原市辺磐坂神社(市辺磐坂神、道真公)・小竹神社(神功皇后)・白鳥神社(天照大神、日本武尊)・和泉神社(五瀬命、元正・聖武天皇)・春日神社(天照大神、天見屋根命)・勝手神社(髪授大神・美容、理容の祖)・熊野神社(伊邪那美命)

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府指定史蹟

和泉清水
昭和46年3月21日指定
神功皇后が新羅遠征の際奇瑞が起こり湧水したといわれ、和泉の地名はこの泉より起こったと伝えられている。清水として祀られると共に、農業用水としても利用され、江戸時代の記録では六ヶ村1300石あまりの水田を養っていたとある。また、豊臣秀吉はここの水を汲み、茶の水として愛したと云われている。
昭和五九年3月
泉井上神社
大阪府教育委員会
和泉市教育委員会

社頭掲示板




国指定重要文化財

泉井上神社境内社和泉五社総社本殿
泉井上神社は、「和泉」の地名の発祥となったと伝えられる、「和泉清水」を祭つている神社である。
五社総社は,奈良時代に河内国から分離し、和泉国が設置された際国府の所在地府中に、国内の五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根を総合して勧請し、参拝の便を計つたといわれている。
現在の本殿は、慶長十年(1605)に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので、国の重要文化財に指定されている。
正面桁行三間、身舎側面二間、屋根が一間分前へ延びて庇をなす。「三間社流造」と呼ばれる形式で、桧皮葺としている。正面と両側面には縁を廻して組高欄を設ける。向拝位置は浜床を張つて半高欄を置き、五級の階段にも宝珠柱の立つ登高欄を設けている。また、内部は内外障境を三枚の両開き板戸で分かつ。
主要部分は丹塗りで極彩色を施し、よく当時の様式を残しており、造営年期が明確な社殿として貴重である。
平成3年3月30日
和泉市教育委員会

社頭掲示板




泉井上神社

当神社は井八幡社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあり、国土守護神又殖産興業の神として御神徳を示す。
神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后にしたかって朝鮮にわたった神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。
境内の清水は神功皇后渡韓の途次一夜にして湧出したので霊泉と名づけられ、国名の源となる。
のち王子神社・八幡神社・菅原神社・式内社和泉神社が合祀されていまにいたっているが、特に和泉国衛内の神社であるところから和泉の総社、(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下官人の崇敬をあつめでいた、
総社本殿は慶長十年(1605)豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。

社頭掲示板




泉井上神社

いずみいのえじんじゃ 大阪府和泉市府中町。当社は神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・同従者四五柱のほか、独化天神を祀っている。独化天神とは、天之御中主神・高産巣日神・神産巣日神を指すものとされている。社伝によれば、神功皇后が当地へ来られた時、清水が湧き出して来たということから、その由緒により国名も和泉と命名されたといわれている。元正天皇霊亀2年(716)河内国を割いて和泉監が置かれたとき、大鳥、穴師、信太、積川、日根の五社を併せ祀り、当社を和泉大社と称した。本殿は三間社流造、慶長10年(1605)豊臣秀頼建立のもので重文に指定されており、殿内には四八体の神像が納められてある。
境内にある明徳銘の石造板状塔婆は重文に、また和泉国名の起源となったと伝えられている清水井は史跡に指定されている。例祭10月5日。当日は和泉放生会が行われる。

神社辞典



泉井上神社

泉は前に同じ、井上は為乃宇倍と訓べし、〇祭神御井神歟、(考証に、水神と云り、中らすとも遠からず、式社考に八幡三座といふ、今從はず、)〇上條郷府中村泉井上に在す、(泉州志、和泉志、式社考、)
式社考云、縁起云、神功皇后征新羅之年、清水一夜涌出、故此地名和泉郡、社古在清水上、今在惣社境内、
類社
山城國愛宕郡出震井於神社の條見合すべし
神位
國内神名帳云、南郡從五位上泉井於社、

神社覈録



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