泉井上神社
いずみいのうえじんじゃ


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【社伝】

神功皇后三韓ヲ征定シ御凱陣ノ時地中二波浪ノ聲アリテ一夜二丈余ノ霊泉湧出ス皇后之ヲ観玉ヒ此地ヲ和泉郡ト名ツケ玉フ又此時二當リ忍熊王軍ヲ住吉二屯シ皇師ヲ遂ヘシトスルニ因リ后此地二行宮ヲ造リ玉フト云フ其後社殿ヲ霊泉ノ上二造営シ仲哀神功応神ノ三神ヲ始メトシ征韓ノ駕ニ從ヒシ勲功ノ神ヲ合セテ四十八神ノ御霊代ヲ奉祀ス故ニ四十八神宮或ハ井ノ八幡、井戸ノ森八幡宮、水内ノ社、又、泉井上神社ト称ス


【公式HP】

縁起
上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]、高産巣日神[たかみむすびのかみ]、神産巣日神[かんむすびのかみ]ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。
神武天皇はご東征をお祈りになり、神宮皇后は仲哀天皇の御即位2年(200年)四月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまつりなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2年(716年)ここに和泉監を置き、この土地が国府となり、地方行政の中心地となりました。
その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も厚くしばしば紳異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。
ご社領は霊亀元年和泉諸上[もろえ]勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総括し、近郷を領有しました。
中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行っています。正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇を受けました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内ひろ過ぎるとして一部を残し上地されています。
御祭神
主祭神和泉大明神[いずみだいみょうじん](独化天神)
総社
天照大日霊貴尊[あまてらすおおひるめのむちのみこと]=大鳥神社
天忍穂耳尊[あめのおしほみみのみこと]=和泉穴師神社
天瓊瓊杵尊[あめのににぎのみこと]=聖神社
彦火火出見尊[ひこほほでみのみこと]=積川神社
うがや草葺不合尊[うがやふきあえずのみこと]=日根神社
御諸別命[みむろわけのみこと]
和泉国六二座
本社
神功皇后[じんぐうこうごう]
仲哀天皇[ちゅうあいてんのう]
応神天皇従者四十五柱
(四十八神宮、水内宮又は小竹宮という)


【文化財】

和泉五社総社本殿総社本殿 重要文化財
五社総社は、奈良時代に河内国から分離し、和泉国が設置された際、国府の所在地府中に、国内の五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根を総合して勧請し、参詣の便を図ったといわれている。
現在の本殿は、慶長10年(1605)に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので、国の重要文化財に指定されている。
正面桁行[けたゆき]三間、身舎[しんしゃ]側面二間、屋根が一間分前へ延びて庇[ひさし]をなす、「三間社流造[さんげんしゃながれづくり]」と呼ばれる形式で、桧皮葺[ひわだぶき]である。 正面と両側面には縁を廻して組高欄[くみこうらん]を設ける。向拝[こうはい]位置は浜床を張って半高欄[はんこうらん]を置き、五級の階段にも宝珠柱の立つ登高欄[のぼりこうらん]を設けている。また、内部は内外陣境を三枚の両開き板戸で分かつ。
主要部分は丹塗りで極彩色を施し、よく当時の様式を残しており、造営時期が明確な社殿として貴重である。
石造板状塔婆
大阪府指定有形文化財(昭和45年2月20日指定)
砂岩製の板石で造られた塔婆で、一般には枝碑とよばれ、供養追善のために建てられたものである。
上部の梵字は、バク(釈迦)、マン(文殊菩薩)、アン(普賢菩薩)の釈迦三尊種子[しゃかさんぞんしゅうじ]をあらわす。下部に刻まれている銘文は、ほとんど消えており判読できないが、わずかに正平3年5月(1348)の年号は読め、南北朝時代のものであることがわかる。
もとは神社南方の和泉寺跡にあったものを昭和7年頃に現在地に移したものである。
府下では数少ない板状塔婆の中で特色ある形式を示しているものであるとして、大阪府文化財に指定されている。
和泉清水和泉清水
大阪府指定史蹟(昭和52年3月31日指定)
古くから「国府清水」または「和泉清水」とよばれ、霊泉として祭られるとともに、農業用水として周辺の農地を潤してきた泉である。
社伝によると、泉は、神功皇后の新羅出兵の際、一夜にして湧き出たことから霊泉として祭られるようになったという。
水は常に清らかに澄み、その味は甘露であるとして広くその名を知られ、豊臣秀吉も大坂城に運ばせて、茶の湯に用いたという。
ここは古来、和泉国和泉郡和泉郷とよばれた地であるが、「和泉」という地名も、また「泉井上神社」の社名もこの泉に由来すると伝えられている。





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