鳳駅北に広大な社地を持って鎮座している。 叢林は千種の森と呼ばれ、日本武尊の霊の白鳥が飛んできてこの地に止まり一夜にして千種の木々が生育したと言う伝説がある。 古来より大鳥連が連綿として祭祀を継承してきた大社である。 神宮寺は大鳥山勧学院神鳳寺と称し、天平12年(740)行基菩薩の開基と伝える。 神鳳寺の建物は現在の大鳥神社境内の東側に配置されていた、明治初年の神仏分離によつて廃絶し、その五重塔址、次いで本堂趾に大鳥美波比神社の社殿が移建された。 中世以降明治初年までは神宮寺である神鳳寺の役僧が、社務全般を管掌していた。 |
大鳥大社由緒略記 当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十五社の一つであって、しばしば臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観3年7月には従三位に叙せられ後正一位に御昇階になりました。 御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところでありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、にわかに病におかかりになり、伊勢国能褒野に於て死去あそばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給い、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起源であって今から約1,850有余年前であります。 また、大鳥連祖神様は、この和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とすると伝えられております。当社は明治4年5月祭神日本武尊として官幣大社に列格になりましたが、明治9年1月天覧に供しました官社祭神考証においては、祭神大鳥連祖神とせられ、明治9年以来この説が公のものとせられていたので、以来当社の歴代宮司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、ついに明治29年10月3日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和32年6月28日付にて、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、ここに御祭神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする二座の御社となり御神慮に御応え申すことが出来たのであります。 御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度にわたって奉仕しております。また、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大鳥大社 大鳥大社由緒 祭神 日本武尊 大鳥連祖神 例祭 8月13日 御増祀記念大祭 3月15日 当社はその起源古く古来大鳥大明神と称せられ延喜式名神大社であり和泉国一の宮である。 日本武尊は景行天皇の皇子にして勅を奉じ熊襲並に東国を平定、帰途伊吹山の賊を平げたとき病を得て伊勢国熊褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と化し御陵を出で大和国琴引原、次に河内国古市にとび最後に此の地に留り坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える。 又、大鳥連祖神は大中臣と元を一にし祖先は天の岩戸開きに功を立てた天児屋根命である。 聖武天皇の御世には僧行基が勅願により神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を建立したが明治の神仏分離により廃寺となり当社は明治4年5月官幣大社に列格。 社殿は大鳥造と称して神社建築史上貴重な様式を今に伝えている。 社頭掲示板 |
歌碑 平治元年(1159)平清盛・重盛父子が熊野詣の途次、源義朝の挙兵を聞いて直ちに引返し、大鳥神社ヘ立寄った。 このときの清盛の和歌が境内碑としてある。 清盛の和歌は伝説にしろ歴史書にしろ、これ以外の和歌がなく貴重な一首といえます。 かよいこぞよ帰りはてなば飛びかけり 育み立てよ大鳥の神 この一首は明治時代の著名な文人画家 富岡鉄斎 (鉄斎は明治10年に大鳥大社の大宮司になっている)の筆による石碑として境内にあります。 社頭歌碑 |
大鳥大社 由緒沿革 当社は延長5年(西暦927年)に完成した延喜式神名帳所載の、霊験特に著しいと言われる名神大社であり、和泉国の一ノ宮であります。 歴代皇室のご尊崇きわめて篤く、殊に国家的災難時に神祇官から指定された防災雨祈の御祈願社は85社ありその一つですので途切れることなく臨時の奉幣に預かりました。 又、ご神階も清和天皇貞観3年7月には従三位に叙せられ、のち正一位にご昇階になりました。 【防災雨祈の御祈願社】 奈良、平安時代は農作物の出来不出来が直接国の税収を左右し政治の根幹に関わる重要な関心事でした。 よって日照りが続くと雨乞いをし、雨が続くと止雨の祈祷をしたのです。 又、大きな災い(地震、疫病、災害等)が起きたり、不吉な事が続いたりすると神社に祈祷をしてもらいました。 そのような天地を鎮める祈祷ができる霊験著しい神社が国により85社定められていました。 御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) ご祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)は日本書紀や古事記に登場する伝説の人物で第十二代景行天皇の第二皇子です。 その武勇は広く知られていますが、古事記、日本書紀によるとヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲(くまそ)を平定し、帰途も従わぬ者たちを征伐しながら出雲の国をも平定しました。 そして、宮へ帰ると休む間もなく東国の平定を命ぜられたので直ぐに赴き、様々な災難に遭いながら何とか帰途つきます。 その途中に伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りに遭い病となってしまいました。 病身のまま大和を目指したのですが、都にたどり着くことができず伊勢国能褒野(のぼの)にて身罷りました。 そこに陵を造り皆が嘆き悲しんでいると、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったのです。 最初に舞い降りたのは大和の琴弾原(ことひきのはら)、再び舞い上がり次に降り立ったのが河内国の古市、その後は社伝によると再び天空高く舞い上がり当所に降り立ちました。 そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源であり今から約1900年前の話であります。 神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。 大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ) もう一柱のご祭神である大鳥連祖神は、此の和泉国に栄えた神別である大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」には天児屋根命(あめのことやねのみこと)を祖先とすると伝えられています。 このように、ご祭神の神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬篤く平清盛、重盛父子が熊野参詣の途次当社に祈願し和歌、名馬を奉納したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度に亘って奉仕しています。 また、聖武天皇の御代には僧行基が勅願によりこの地に神宮寺として神鳳寺を建立したが、明治維新の神仏分離令によって廃寺となりました。 社殿 本殿は大鳥造と言い、神社建築史上一種の様式を保っており、構造は出雲の大社造に酷似して、切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ形式を今日に伝えています。 つまり大社造と似ているのは、切妻造、妻入りで正面、側面共二間である点で相違点の大きなところは、大鳥造では入り口は正面中央にあるので中央の柱はなく、側面裏への縁が無く、内部は前後の二室に分かれており、心の御柱がなく、高床も低い事などであります。 社殿は天正年間(1573年〜1592年)の兵乱によって炎上し、慶長7年(1602年)豊臣秀頼によって再興されましたが、更に寛文2年(1662年)には徳川家綱の命により堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治35年(1902年)には特別保護建造物(現在の重要文化財)に指定されましたが、同38年8月雷火の為に炎上し、現社殿は明治42年に従来の形式通りに再建されたものであります。 昭和9年国の費用でお屋根替、さらに昭和36年ご祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手によって内部の模様替と原型解体に近い大修理が行われました。 大鳥大社と白鳥伝説 御祭神である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は西征して熊襲(くまそ:現代の九州南部で大和王権に抵抗した勢力)を平定し、東征して東国を平定したのですが、伊吹山で病に冒されました。 そして、大和を目指し帰途についたのですが伊勢国能褒野(のぼの:三重県亀山市)で薨去されたのです。 亡骸はその地に葬られたのですが、その陵墓から魂が白鳥となって飛びたち最初に舞い降りた地が大和国琴引原(現:琴引原白鳥陵)です。 再び飛び立った白鳥は河内国古市に降りました。(現:古市白鳥陵古墳) そしてまた飛び立った白鳥が最後に留まったのが大鳥の地で、社を建ててお祀りしたのが当社の起こりです。 当社にある千種森(ちぐさのもり)は、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。 当社は延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社としてその名が知れ渡り全国からお参りに来られます。 本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という大社造に次ぐ古形式の独特の様式です。 勝運、開運、厄除、交通安全に信仰されています。 公式HP |
大鳥神社 おおとりじんじや 大阪府堺市鳳北町。 旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は明治4年(1871)官社列格の際、大鳥連祖神一柱とせられたが、昭和32年主祭神を日本武尊として二柱に増祀された。日本武尊は社伝によれば東夷征討の帰途俄に病を蒙り、伊勢国能褒野に於て薨去され白鳥と化し当地にとどまったという。大鳥連は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋命の後なりとある。『新抄格勅符抄』によれば大同元年(806)神封二戸が寄せられたとみえる。神階は『三代実録』貞観元年(861)に従三位昇叙がみえ、その後『和泉国神階帳』に正一位とある。 延喜の制では名神大社に列し祈年・月次・新嘗の官幣並びに祈雨神祭八五座の一としてたびたび臨時奉幣に預かり和泉国一の宮として朝野の崇敬をうける。平清盛・重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し和歌及び神馬を奉納していることをはじめ織田・豊臣・徳川各氏も社領の寄進や社殿の造営を行っている。本殿は大鳥造と称し、大社造から進展した形式といわれる。天正年間(1573−92)の兵乱により社殿炎上し、慶長7年(1601)豊臣秀頼により再興せられ、寛文2年(1662)徳川家綱の命により堺町奉行石河土佐守利政をして再建され、元禄14年(1701)徳川綱吉は柳沢保明をして修営せしめた。現社殿は明治38年(1905)に雷火のため炎上し、同42年に再建されたもの。境内は約五万平方メートルで千種の森とも呼ばれ六月中句の花菖蒲は有名である。神宮寺であった神鳳寺は行基の開基と伝え、真政円忍律師の中興。摂社の大鳥美波比神社・大鳥北浜神社・大鳥浜神社・大鳥井瀬神社は式内社で、本社と合わせて大鳥五社明神と称せられた。主な祭典は例祭が8月13日のほか3月15日=祭神増祀記念祭、4月13日=花摘祭、7月30、31日=夏祭などである。 神社辞典 |
大鳥神社 名神大月次新嘗 大鳥は郡名に同じ○祭神日本武尊、(一宮記〇惣国風土記異本に、素佐能鳥尊御子衝杵尊乎而留比古命といふ、今從はす、)○大鳥郷大鳥村に在す(泉州志、和泉志、式社考、)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、和泉國大鳥神社一座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、大鳥社一座〇当國一宮也、(一宮記)○永萬記云、大鳥社、(明兼子孫領、云々、) 大鳥社流記曰、(和泉志引用)祭日本武尊、又云、平清盛與子重盛將詣熊野、塗聞源義朝反、帰道于此、乃献鞍馬、云々、慶長中罹兵火、後石河土佐守建石華表、元緑中僧快圓興建神鳳寺於域内、寺隅僅存小祠、 神位 続日本後紀、承和9年10月己巳、奉授和泉國從五位下大鳥神從五位上、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授和泉国正五位下勲八等大鳥神從四位下、同3年7月2日甲戊、授和泉國從四位下勲八等大鳥神從三位、○國内神名帳云、正一位大鳥社、 官幣 日本紀略、弘仁14年7月丙辰、奉和泉國大鳥社幣、以祈雨也、」三代実録、貞観元年9月8日庚申、和泉国大鳥神、遣使奉幣、為風雨祈焉、 社地 神田 神領 大鳥社流記云、(泉州志引用)四至、限東道並神田、限西大道、限南野田村並道、限北榎本村並小道、神田二町二段三百捌拾歩、已勅施入大鳥里一坪百歩、二坪六段、十一坪一段三百八歩、高槻里十二坪二段、大菅田里廿坪一町、鳥居肆基、立蜂田路一基、濱一基、社前後各一基、所領田畠伍百余町、在阿波国那賀郡平方島、御榊葉山参所、在上神郷字八蜂稻持富坐峰等也、〇式社考云、信長公御判物神領千三百石、秀吉公没収、慶長7年秀吉公再興、同19年兵火内、社頭瑞垣神宝記録焼失、元禄14年從公儀御修復、 社職 当国惚社神主田所氏所蔵古文書 和泉国大鳥社禰宜職事、任文治正安両度、勅裁橘員高全両堂殊可□行神社之者、天氣如此悉之、 延元元年4月25日 神社覈録 |