大鳥大社
おおとりたいしゃ


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【祭神】

社博によれば、古来より祭神は日本武尊であつたが、明治9年の官社祭神考証に依り大鳥連祖神に確定し、明治29年の内務省社寺局長の通牒以後は、祭神を大鳥連祖神とするが、昭和36年6月28日、日本武尊増祀の許可を得、翌37年3月15日に日本武尊御増祀記念大祭を齋行したのである。爾來、日本武尊を主祭神とし、大鳥連祖神と合せ祀ることとなつた。


【神鳳寺】

斉衡2年(855)8月18日に記された「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」という資料に慶雲三丙午(706)「始めて三妃を祭り神宮造営、大鳥五社大明神と名付け奉る」とあり、記録として残るこの頃以前から存在していた事になります。
神鳳寺というのは、大鳥山勧學院神鳳寺と言い、和銅元年(708)に行基が大鳥大社の神宮寺として創建されました。
行基大僧正は堺の出身で一生を民間布教と橋をかけたり潅漑事業にかけた名僧で、生涯に建てた寺は堺の家原寺を始め49寺院もあり、その中でも神鳳寺は家原寺とならび、本堂・不動堂・五重塔・経蔵・鐘撞堂などを備えた大寺院だったようです。
現在でも大鳥大社の境内は1万5千余坪(14万9,500平方メートル)もある広大な面積ですが、昔の神域・寺領は現在のものより遙かに大きく神社一帯の丘陵地全体を占めていたのでしょう。
天正年間に兵火で炎上しましたが、慶長7年11月に豊臣秀頼が再興。その後再び戦乱で荒廃しましたが、寛文2年3月には徳川家綱が石河土佐守利政を奉行として本殿を造営させて元の姿となりました。
しかし、神鳳寺のほうは慶応4年6月の神仏分離令により本堂・不動堂・五重塔・方丈・経蔵・中門・廊下・鐘突堂・下蔵・紫部屋や左右廊下はすべて取り壊され、ご本尊は堺市百舌鳥の光明院に移されました。
また梵鐘は現在は鳳北町の専光寺にあります。この神鳳寺の本堂と五重塔跡に現在の大鳥美波比神社を移建したといわれていますが、神社の横には当時の神鳳寺跡を何となく窺わせるような石囲いの拝所のようなスペースが残っています。




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