『三宅記』の三島大明神の第三の后神(佐伎多麻比当ス)が八王子を一度に産んだ時、「二番カ子」が加彌命であり、当社の祭神とする。 かみの宮の地が当初鎮座の地であるが、後に山の神の二宮神社へ移り、さらに、明治7年7月3日の噴火で、御笏神社の境内西の奥にへ遷座した。 |
山ノ神 明治7年7月3日の噴火に罹り、御笏神社の境内に遷祀される以前は、御笏神社の東南東約1200mの地点にある通称「山ノ神」が、二宮神社の社地であった。 風速山(かぞはいやま)から北方海へ向かって尾根様の地形が続いている。その中程に173の独立標高のあるこぶがあり、土佐から「はちまき道路」へ登る林道が、このこぶの西側を、反対コの字形に巻いている。 その巻いている道の南西の角から牧場へ向かう道を、ほぼ東へ約20m(目測)入ったところの北側に、山をけずってつくった東西3m南北4mほどの平地があり、そのせまい平地の西側に寄せてほぼ南東向きに、「山ノ神」の小祠がある一ばん新しいものは新島石で出来ている総高64.5cmの石宮で、ほほ南東を向けて置いてある、そのまわりは、長径40cmぐらいのあまり大きくない溶岩塊を1m四方ぐらいにならべて、四角く限ってある石宮のすぐ後には、まわりの岩石とはちがう地上部高さ62cmの石と地上部高さ42cmぐらいの石が、並べて置いてある。 向かって左側のものが背が高い、この石がお宮のもとの形を残しているものか。石は、節理にしたがって割れたややそりのある板状の安山岩で、細長く平らである。 新しい石の小祠の約1m北東側には、現存高さ約65cmぐらいのこわれた木造の小さい社殿と小さい鳥居が、棄てられている。 付近の地形は明治7年と昭和15年のスコリアでおおわれているが、海抜173mの独立標高で代表されるこぶ全体ではなく、この山ノ神の付近の径約50mぐらいには、少なくとも明治7年よりも古い溶岩流の末端が頭を出している。(このこぶ全,体に、古い溶岩流の末端の根があるようにも見える。)この溶岩流は谷を流れて埋めたものや布状に広く堆積したものではなく、溶岩流の末端であるために、径1m内外ぐらいの岩塊の積み重なりとなっている。古代的とまではいかないが、風化やつまり方の程度などから、いわば中世的な感じのするものである。付近の植生は、比較的若い雑木林である。 三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 森谷ひろみ |