尾野神社
おのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】尾野神社 伊勢国 桑名郡鎮座
          (旧地)尾野神社【旧地】
          (合祀)立坂神社

   【現社名】尾野神社
   【住所】三重県桑名市東方西馬様 2194
       北緯35度4分27秒,東経136度40分37秒
   【祭神】天押帶日子命
    10月15日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立は崇神天皇28年秋9月と伝える
       永禄10年(1567)織田信長のために焼失
       明治29年には県社
       明治41年式内社「立坂神社」を合祀

   【関係氏族】小野津臣
   【鎮座地】往古は御陵の上に神殿があった
        永禄10年焼亡の後神殿は丘の下に移つた

   【祭祀対象】氏祖(古墳)
   【祭祀】江戸時代は「船着大明神」とか「江御前」と称していた
   【社殿】本殿神明造銅張
       幣殿・拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】
   【別当】小野山正齋坊(今は廃)

社名は奉斉した小野津臣によると思われる。
大成小学校の北の山麓に鎮座する。
創立は崇神天皇28年秋9月と伝える。
この地に居住していた小野津臣が、小野氏の祖神妹背二柱、天押帯日子命と大后神高御前月読命を齋き奉った。
一柱を尾野山の北方字西馬様(バサマ)(現地)に葬り祀り、これが尾野神社であり、つぎの一柱を尾野山の南方字立坂に葬り祀った、これが立坂神社である。
背後にある小高い丘は、その始祖を葬る御陵跡と伝えられている。前方後円墳の形をとどめているが前方部は現在大成小学校の校庭になっている。
往古は御陵の上に神殿があり、これを「奥之院」と称していた、現在も頂には松の大樹が繁り、その数本の大木を中心に玉垣がめぐらされ、元の社地跡の名残りをとどめている。
またこの岡は尾野山城跡で、尾野神社の別当尾野山正斎坊が築城。永録天正のころ信長勢によって滅亡とも、また永禄中には建部(渡部とも)掃部下介が居城とも伝える。
往古はこの附近一帯(更に北方まで)にかけて海が入りこみ、舟着場として栄え、ここを基点として陸路東海道、美濃路へと向つたものらしい。
立坂神社は現在、当社本殿の右隣に社殿がある。旧社地は桑名市東方1895-1、桑陽保育所の地とされている。


尾野神社

当神社は「尾野神社」と申しまして御祭神は天神帯日子命があまつりしてあります。
この神様は第五代孝昭天皇の皇子であらせられこの地方開拓の祖神であります。延喜式神名帳に桑名郡十五座のうちの「尾野神社」一坐とあるのがこの社であり別名「船着大明神」とも申します。船着の名は旧桑名市街が大部分海であった大昔にこの東方地区が町屋川と揖斐川の河口であり、伊勢湾の湾入と相交錯した地勢であったことが想像され従って船の出入りも考えられるのでこの名があるのでしょう。 このように大昔から移動することなく現存する立派なお社ですから明治29年9月28日県社に列格したのであります。
尚境内の西の丘陵はみ霊さまと通称する陵墓で御祭神と関係ありそうに思われます。
客宮  立坂神社由来
向かって右のお社は本宮立坂神社と申します。
昔はこの地より西の方、今の梅園町の桑陽保育園の地にあって今尚旧跡が残っております。俗に草鞋神と称えて足止めの信仰があり、この神様の門前にわらじを供えて家出人の足を留めて頂くことを祈り、又は旅の安全を祈ったのであります。

社頭掲示板



船繋ぎの松 由来

船繋ぎの松一名「船着きの松」は当尾野神社が船着大明神と呼ばれて尊信された太古(千数百年前)には、この他が海陸交通の接点として、船の出入りのあったことを物語る、博承遺跡である。
桑名の郷土誌にその名がしるされて、今も何代目かの松の根株が遺っているが、年と共に消滅しつつあるので手入れをし、保存の方途を講じ大昔を偲ぷ端緒とするものである。
昭和53年12月吉日
尾野神社社務所

社頭掲示板



尾野神社

尾野は假字也〇祭神詳ならず○東方村に在す、(考証、俚諺)今船着社と称す

神社覈録



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