志氐神社
しでじんじゃ 所在地 社名















 【延喜式神名帳】志氐神社 伊勢国 朝明郡鎮座
          (合祀)長谷神社

   【現社名】志氐神社
   【住所】重県四日市市大宮町14-6
       北緯34度59分27秒,東経136度37分58秒
   【祭神】気吹戸主神 (配祀)伊邪那岐命 伊邪那美命
       (合祀)上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 応神天皇 大山祇神
       奧津日子神 奧津日女神 久那斗神 祭神不詳
       『再考』神稲霊
       『考証』『古屋草紙』『勢陽雑記拾遺』『勢陽俚諺』『伊勢名所図絵』大神宮荒御魂
       『志氐神社記』伊吹戸主神

   【例祭】10月17日前の日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創祀年代は詳らかでない
       社記では垂仁天皇の頃
       天武天皇壬申の乱の時天照皇大神宮を遥拝
       天正のころ豊臣秀吉参詣
       慶長5年桑名城主本多忠勝神田を寄進
       明治2年3月天皇御東幸に際勅使差遣
       明治6年3月郷社
       同39年神饌幣帛料供進社指定
       昭和6年3月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高御前社」と称していた
   【公式HP】 志氐神社
   【社殿】本殿神明造桧皮葺
       拝殿・神饌所・手水舎・社務所・使丁舎・神馬舎・倉庫

   【境内社】須賀社・大宮能売社
   【境内図】 境内図

街中の小高い丘の上の神社。
創祀年代は詳らかでないが、社記には垂仁天皇の頃からとしている。
この地は『神鳳抄』にも額田神田とあって神宮との所縁が深い地である。
天武天皇が壬申の乱に際して朝明郡の迩太川辺で天照太神を望拝した地とされる。
『志氐神社記』には天皇が御祓をされた岡を御祓岡、今の岡山といい、神宮を望拝された山を額摘山というとし、また望拝の時の班幣に因つて「志氐」というに至つたとする。
神社境内に古墳がある。前方後円墳で、現在は前方部がなくなっており後円部の高さ約6m、経約30m、周囲に浬をめぐらし、陪塚が七基あつたが、現在は陪塚は一基のみ残つている。築造年代は、古墳の形式及び出土品からして四世紀末とみられる。



志氐神社

延喜式内志氐神社
御祭神 伊吹戸主神外十一柱神
境内杜 須賀社 建速須佐之男命外八柱神
    大宮能費社 天宇受費命外七柱神
御由緒
社記によると、当杜は垂仁天皇の御代の鎮座で、高野御前と称した。志氐の名は天武天皇が皇子であらせられた時に、壬申の難をさけて、吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮にお出ましの途次、迹太川の辺で天照皇大神宮を遥拝あそばすため、ここに木綿(ゆふ)取重(しで)て御身の禊(みそぎ)をなされたので「志氐」の名がおこり神社の名となった。
「シデ」とは御幣のことで「天皇が四方に幣を班し、祓の神、伊吹戸主神をお祀りになり、禊(みそぎ)祓(はらい)をなされた」御跡をそのまま干有余年までも斎い申す神社である。延喜式内社にあげられ、明治6年郷社に、昭和6年県社に列せられ、昭和21年制度改革により杜格を廃止されたが、北伊勢を申心に崇敬せられ現今に至る。
史料
○天平12年、聖武天皇が北伊勢地方へ行幸の時に供奉した丹比家主真人が当社で詠んだ歌が萬葉集にある。
「後れにし人を偲はく志氐の崎木綿とりしでてさきくとそ思ふ」
○応永のころ田原藤太藤原秀郷の後裔である赤堀盛宗が、当杜の南方数町の地に羽津城を築き、その後六代居城し代々当社を崇敬した。 ○天正のころ豊臣秀吉が羽津城に駐陣して、桑名の織田信雄に対した時、数次当社に参詣して戦勝を念じた。
○慶長5年関ケ原戦後、桑名城主本多忠勝は当社へ神田を寄進した。
○明治維新まで当杜は、羽津村・吉沢村・別名村・八幡村・鵤村五ヶ村の総杜であった。
○明治40年各字の神杜を合祀することになり、白須賀の神明杜と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神杜と荒神社、各字の山之神を、本殿に奉斎し、その他の祭神を境内社に合祀した。
境内古墳
この古墳は、応神天皇や仁徳天皇の御陵と形式を同じくする前方後円である。濠をめぐらし規模が大きくてよく整っている点では、北勢地方随一の大古墳である。陪塚七個あったと伝えるが、一個のみ境外東方の敷地に現存している。
嘉永五年この古墳の前方と後円の境目のところに小径を築いた時に、貴重な出土品を発堀した。古墳の形と出土の品によって、四世紀末頃の高貴な方の墳墓と推定せられる。
出土品
現存している出土品は漢鏡の破片、ヒスイ曲玉、淡碧玉製管玉、空色硝子小玉と車輪の石で元神宮皇学館の鑑定によるとまことに貴重な品々とのことである。
妻恋稲荷社
日本武尊と弟橘媛命と稲倉魂神をおまつりした稲荷社で、毎月17日例祭を行い、四月十七日大祭を行う。子供の虫封、家内安全、生業繁昌、願望成就の神として崇敬者年々増加し、御神護を奉謝する者で稲荷講を結んで例祭に参詣している。
参集殿(結婚式場)
結婚儀式殿、写真室に広間は中央廊下に面して、十畳四間、八畳四間、炊事場などが設けられ、結婚式や披露宴をはじめ諸会合などに善用せられている。
祭日(年中行事)
元旦祭 一月一日    奉賛会大祭 七月十七日
成人祭 一月十五日   敬老祭 九月十五日
節分祭 二月三日    大祭 十月十七日
厄除祭 二月吉日    七五三祭 十一月十五日
祈年祭 二月十七日   新嘗祭 十一月二十三日
勧学祭 四月四日    大祓 十二月二十五日
大祓 六月三十日    除夜祭 十二月三十一日
夏祭七月十七日 慰霊祭 

由緒書



由緒

祭神 気吹戸主神
合祀 伊邪那岐命伊邪那美命 外26柱
由緒
当社は垂仁天皇の御代の鎮座にて高野御前と称へ奉られ「志氐」の名は天武天皇が皇子であられた頃壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次跡太川の辺で伊勢の神宮を望拝されたことに起因しています。シデとは御幣のことで天皇が四方に幣を班ち祓いの神気吹戸主神をお祀りし禊ぎ祓いをなされた御跡を斎い奉れる神社であります。
天平十二年聖武天皇が北地方へ御幸の時に丹比屋主真人が当社で詠んだ歌が万葉集に見えます。
  後れにし 人を思はく 四泥の埼
     木綿取りしでて さきくとぞ念ふ
境内古墳は前方後円式で前漢時代の鏡車輪石などの出土品により4世紀頃の高貴な方の墳墓と推定され北勢随一の大古墳であります

社頭掲示板




志氐神社

当社は垂仁天皇の御代の鎮座にて高野御前(たかのみまえ)と称え奉られ「志氐」の名は天武天皇が皇子であられた頃壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次、迹太川(とほかわ)の辺で伊勢の神宮を望拝されたことに起因しています。
 シデとは御幣のことで天皇が四方に幣(ぬさ)を班(わか)ち、祓の神気吹戸主神をお祀りし禊祓をなされた御跡を斎(いは)い奉れる神社であります。
 天平12年聖武天皇が此地方へ行幸の時に丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が当社で詠んだ歌が万葉集にみえます。
 後れにし 人を思(しの)はく 四泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取りしでて さきくとぞ念(おも)ふ (奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神さまにお供えものをして妻の無事を祈った歌)
 当社境内古墳は前方後円式で前漢時代の鏡・車輪石などの出土品により4世紀頃の高貴な方の墳墓と推定され北勢随一の大古墳であります。
 平安時代の延喜式にあげられ代々藩主の崇敬の念篤く御神威は遍く光被じて北勢の名社であります。

社頭掲示板



志氐神社

御由緒
当社はおよそ垂仁天皇の御代の鎮座とされ、古くは高野御前たかのみまえと称されていました。倭姫命が天照大神を奉斎して神宮御鎮座の地を求めて巡幸されました。その際、桑名野代の宮から鈴鹿忍山宮への途次に当たっているため、皇大神宮の御鎮座である垂仁26年より前とみられています。
天武天皇が皇子の時、壬申の乱を避けて吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮への途次、迹太とほ川のほとりで伊勢の皇大神宮を遥拝されました。その際「シデ」(御幣)を垂らして禊祓いをされたことにより、この地に「志氐」の名が起こり社名となました。皇子がお祓いをされた岡が御祓岡(岡山)、天照大神を望拝された山が額摘山ぬかつかやま(糠塚山)であり、望拝の時に献じる米を迹太川で洗ったので以後これを米洗川よないがわと称するとされています。
当社は延長5年(927年)にまとめられた、延喜式神名帳に記載される延喜式内社にあげらます。明治維新までは羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村の総社とされ、明治6年に郷社、明治39年には神饌幣帛料供進社と定められました。明治40年後各字の神社を合祀することとなり、白須賀の神明社と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社と荒神社、各字の山之神、その他の祭神が合祀されました。昭和6年には県社に定められましたが、昭和21年にて社格制度は廃止されています。四日市市羽津地区を中心に北勢地方を中心に崇敬されている神社です。

公式HP



志氐神社

志氐は假字也○祭神詳ならず○羽津村に在す、(俚諺) 北勢古志云、此神社は羽津村に在て、俗に高御前と云り、社記云、御祓岡鎮坐伊弉諾尊、伊吹戸主命、云々、又古谷双紙、俚諺抄などには、祭神太神宮荒魂也といふ、云々、誠には天照大御神を祭り給はん為に、爰に木綿取垂て大御身の祓をも志たまへりしかば、御祓岡の名も、志氐崎の名もあるにこそあらめ、又其ゆふしで給へりし跡を、其まゝに齋祭れるからに、志氐神社とはいふなるべし、されば其祭神を、古谷双紙の類に、太神営荒魂也と云る は、いとよく当れるが如し、されどまた思ふに、太祓詞に、云々、此故にや世に身禊する所には、氣吹戸主神を祭れる所々多し、されば此所も然にやとも思はるゝは、何にても有べき事也、云々、爰はとにかくに、天武天皇の御故事に依れる神社とこそは聞えたれ、さて其木綿かけ給へりしより、志氐神社と崇め祭りて、今の世迄も常磐に堅磐に動き給はぬこそ尊けれ、

神社覈録



郷社志氐神社

祭神 氣吹戸主神 上筒男之命 中筒男之命 底筒男之命 相殿 伊邪那岐命 伊邪那美命
創建年代詳ならず、神名帳考証に云く、「志氐神社、今別名村南四手野社、為名帳考証再考に云く、「志氐神壮、萬葉集に云く、天平12年幸伊勢國之時作歌、後爾之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而將住跡其念、又続日本紀に云く、天平12年11月丙午、車駕到朝明郡、此地は即四泥の埼にして、地名は其田の沃壌なれば、稲のシナと登るに依なり、シデ下垂にて、ダレの切デなり、祀神稻霊、今別名村に四手野社といふ、」神社覈録に云く、「志氐は假字也、祭神詳ならす、羽津村に在す、」神祇志料に云く、「今羽津村にあり、高御前といふ、」分注に按するに羽津村より茂福に至る間の松原をシテ崎と唱へ、又羽津の西に四泥野あり、証とすべし」と云へり、而して三書共に朝明郡(明治29年三重郡に併入ぜらる)廿四座の中に数へ式内小社に列せり、或は云く、当社の草創は垂仁天皇の御宇と、又云く、往古当村に城郭あり、城主赤堀掃部助は田原藤太秀郷十七世の孫、田原肥前守景治の嫡子にして五代相続す、後分れて羽津濱田赤堀三家となり、倶に当社を崇敬し、赤堀右京亮古刀一口奉献、其臣森半左衛門岩田縫殿右衛門長松記内長右衛門造営奉行にて修理せしと伝ふ、また皇大神宮へも太刀一振奉納の由なれども、天正兵火のため旧記神宝悉く烏有に帰す、然れども其後慶長3戊戌年改造の棟札現存す、其銘に内府家康公領代官水谷九左衙門光勝森雲龍軒等の記名あり、今字城山と唱ふるは旧城址にして、其所に雲龍軒屋敷跡と称するものあり、以て其沿革の一班を窺ふに足らん、北勢古志に云く、「此神社に羽津村に財て、俗に高御前と云へり、社記に云く、御祓岡鎮座伊弊諾尊、伊吹戸主命、云々、又古谷草紙、俚諺抄などには、祭神大神宮荒塊也といふ、云々、誠には天照大御神を祭り給はん為に、爰に木綿取垂で大御身の祓をもしたまへりしかば御祓岡の名も、志氐崎の名もあるにこそあらめ、又其ゆふしで給へりし跡を、其まゝに齋き祭れるからは、志氐神社とはいふなるべし、されば其祭神を、古谷双紙の類に、太神宮荒魂也といへるは、いとよく当れるが如し、されどまた思ふに、大祓詞に、云々、此故にや世に身禊する所には、気吹戸主神を祭れる所々多し、されば此所も然るにやとも思はるゝは、何にても有るべき事也、云々、爰はとにかくに、天武天皇の御故事に依れる神社とこそは聞えたれ、さて其木綿かけ給へりしより、志氐神社と崇め祭りて、今の世迄も常磐堅磐に動き給はぬこそ尊けれ」と、是に由りて来歴を窺ふべし、大日本地名辞書四泥崎の條下に、「羽津の濱と曰ふ、延喜式、朝明郡志氐神社此に在り、今高御前と呼び、土俗風伯神と為す、」又云く、「志氐社境内に古墳あり、面積百余坪、樹木叢生す、嘉永5年社殿修造の時之を発見し、曲玉土器等数品を掘出し現に当社に所藏せりといふ、是等に微するも、如何に当社創設の遠遇なるかを察すべし、明治元年車駕東行に際し、奉幣使を遣はし玉串を納めらる、同8年郷社に列せられ、同41年村社長谷神社、国八幡神社、同神明社、同住吉神社を合祀す。 社殿は神殿、拝殿、幣殿、絵馬殿等具備し、境内坪数1491坪(官有地第一種)を有す。

社頭掲示板



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