菟上耳利神社
うなかみみみとしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】菟上神社 伊勢国 朝明郡鎮座
          (合祀)耳利神社

   【現社名】菟上耳利神社
   【住所】三重県四日市市伊坂町1388
       北緯35度2分9秒,東経136度37分47秒
   【祭神】応神天皇 (配祀)兔上王 大山祇神
   【例祭】4月22日 天皇祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀年代は詳らかではない
       明治に入り村社
       大正6年11月神饌幣帛料供進社の指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所・物置・中門・手水舎

   【境内社】

小川近く台地の上。四日市JCTの南に位置し、集落の外れで竹林がある。
創祀年代は詳らかではないが、往昔、菟上王を祭り、或は菟道稚郎子を祭つたとも伝えられる(社記由緒記)。中世には八幡宮と称したという。
明治41年11月字上ノ山の無格社耳利神社(建速須佐之男命)を合祀社名を菟上耳利神社と単称した。
この神社の西側の水田あたりを古代の東海道が通っていたとされる。
境内後方一キロに古宮と地名に残り、破魔弓場という流鏑馬が行はれた遺蹟がある。
文久2(1862)年、朝明郡伊坂村の農民久四郎4男乙松、清七次男富二郎の二人が、字重地山に薪を拾いに行き、弥生時代の銅鐸を発見した。高さ40cmで、鐸身には六区袈裟襷紋がある。四日市で唯一現存する銅鐸で、昭和27(1952)年県有形文化財となり、現在、四日市市博物館にある。


菟上(うながみ)遺跡

所在地:伊坂町
最寄駅:三岐鉄道平津駅
 菟上遺跡は、菟上耳利神社の北にあります。この遺跡も、第二名神高速道路建設のために現在発掘調査が行われています。
 まず遺構ですが、50棟以上の竪穴式住居を有する弥生時代中期の集落跡が見つかりました。あと、少数の掘立柱建物も発見されました。弥生の掘立柱建物というのは三重県では非常に珍しいそうです。掘立柱建物の中には棟持柱(むなもちばしら)を持つものもありました。伊勢神宮の正殿のようなものです。
 それから40棟以上の飛鳥・奈良時代の掘立柱建物群も発見されました。一辺が80センチ以上のある柱穴を持つ掘立柱建物もありました。
 また、120基以上の火葬施設も出土しています。室町時代の頃のものだそうで、その中には人骨や焼土、炭化物などが出てきております。中には水晶の数珠や宋銭・明銭が出土した火葬施設もありました。
 遺物は土器も多かったのですが、石斧・石鏃・磨製石剣・砥石など石器もかなり出ています。祭祀用の舟形木製品なども出てきました。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/una.html



銅鐸

三重県指定有形文化財(考古資料)
昭和27年3月13日指定
銅鐸
銅鐸は、弥生時代に近畿地方を中心とした地域に多く分布する青銅製の「カネ」で、豊作と収穫を祈る祀りに使われたと考えられている。
・銅鐸の製法は、溶かした銅を鋳型に流し込んで作られるが、側面や上面に空いている穴は、鋳型の外型と内型とを問隔をあけて支える型持(かたもち)の跡である。
言い伝えによれば、この銅鐸が発見されたのは、今からおよそ60年前の江戸時代末期のことである。当時の伊坂村の農民二人が、同村字重地山(菟上神社の北西約400mの付近と推定)に薪を取りに行った時、青緑色に錆びた奇妙な形の「カネ」を掘り出したと伝えられる。
この銅鐸は、菟上神社の所蔵であるが、現在は、四日市市立博物館に寄託されている。
平成28年3月
四日市市教育委員会

社頭掲示板



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