鈴鹿川流域の国府町にあつて、従来、樫木大明神と称せられた社で、明治8年に教部省達によつて延喜式内江神社に決定された。現在、三宅神社に合祀されて社殿はない。 国府小学校の西側一帯に関氏一党の国府氏の居城が置かれていた。当社の鎮座地はこの城跡の北東にあたり、約12mの高さの河岸段丘上にあつた。 本社の傍に「宮の下」の字名が残るが、それに接続した平田百余町は、むかし鈴鹿川による大沼があつたといわれており、社名の「江」の意味にかなう。 |
国府城 国府城は、国府地区の中央にある国府小学校の西側一帯が城域で、南側は台地続きだが、東・西・北の三方は自然崖となった地形に築かれている。 現在は宅地と畑となっていて、児童公園から北に細い道を100mほど行くと、竹藪の前に国府城の案内板が立てられている。 案内板の背後の竹藪に土塁が残り、更に西側の畑が一段低くなっているのが空堀の跡だ。 さらに、民家東側の畑北側にも草に覆われているが土塁が残っていていた。 |