鈴鹿川の中流域で、伊勢国府の所在地として、古くから開けた地である。 この地は国衙領域のほほ中央に位置するもので、ここに正倉が付随して設けられていたと思われ、それに依つたものであろうか。正倉は三宅神社の境内南方の土壇の跡辺りという。 古くから総社明神と呼ばれて来たもので、平安後期に入つて国司が国内の神社を巡拝する代わりに設けられた総社と考えるのが妥当であろう。 当社を大鹿三宅神社に比定する説もある。 |
三宅神社遺跡 伊勢国総社に比定される三宅神社の東南に広がる遺跡です。当遺跡は平安時代における伊勢国府の所在地に推定されています。これまでの調査では奈良時代から平安・鎌倉時代の掘立柱建物・井戸・土坑が数多く見つかっています。今のところ官衙に関連する確実な遺構は発見されていません。 鈴鹿市HP http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/site100/0495.htm |
三宅神社 三宅は彌夜気と訓べし○祭神三宅連祖歟○国府村に在す、(俚諺)今総社と称す、○日本紀、天武天皇元年6月、越大山至伊勢鈴鹿、爰國司守三宅連石床、等参遇于鈴鹿郡、」姓氏録、(右京諸蕃下)同、(摂津国諸蕃)三宅連、新羅國王子、天日桙命之後也、 多氣窓螢云、三宅伊勢橡種名といふ者、南方の御祈祷とて、三宅の社建ける時、彼御事申なげぎぬ、云々、」雑記に、三宅村にあり、千力大明神といふ、と云るは当らず、こは奄芸郡にて、同書に、加和良神社なるよしいひおきて、また当社也と云るは何の事ぞや、 類社 遠江國引佐郡、丹波國桑田郡、丹後国加佐郡三宅神社、(各一座)越後國古志郡三宅神社二座、当國河曲郡大鹿三宅神社、 神社覈録 |