中日CC正門入ってすぐ右手、丘の上に石碑が建っている。 この地が旧地であるとする。 社伝によれば、往古は村のなかに鎮座されていたが、天正伊賀の乱の後、下宮代の地に移ったと伝えている。 下宮代の社地跡には、明治33年8月に氏子によつて建てられた石の社標があり、それには「延喜式内天一鍬田神社」と刻まれている。 |
由緒 当社の創祀については詳かにはし難い。近世の「亀城兎園記」等には、八島明神と記し、「三国地志」や他の地誌類をはじめ国学者の式社考証類は、おおむね本社を鈴鹿郡の式内天一鍬田神社に比定している。社伝によれば、往古は村のなかに鎮座されていたが、天正伊賀の乱の後、下宮代の地に移ったと伝えている。江戸時代を通じ近郷の氏神として、人々の崇敬をあつめた。明治40年8月20日、村内の40社を合祀して庄内神社と改称し、現在に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |