庄内神社
しょうないじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天一鍬田神社 伊勢国 鈴鹿郡鎮座
          (旧地)天一鍬田神社(旧地)

   【現社名】庄内神社
   【住所】三重県鈴鹿市東庄内町2453
       北緯34度55分22秒,東経136度27分40秒
   【祭神】伊邪那岐命 速玉之男命 神直比之神 食津神 久久理比売神
       須佐之男命 誉田和気命 伊邪那美命 大事忍男命 大直比之神
       金山比古神 大山咋神 木花佐久夜比売命 大雀命 天照大神 八十禍津日神
       大山祇命 火之加具土神 大名牟遅命 市杵島比売命 菅原道真

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       天正の兵乱の後、下宮代の地に移つた
       明治初年に村社
       明治39年神饌幣帛料供進社
       同40年8月20日村内の四十社を合祀して庄内神社と改称現地へ遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】むかしは村の中に鎭座
        天正の兵乱の後、下宮代の地に移つた
        明治同40年庄内神社と改称現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八島明神」と称していた
   【公式HP】 庄内神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【別当】金光寺

近世の「亀城兎園記」等には、八島明神と記し、「三国地志」や他の地誌類をはじめ国学者の式社考証類は、おおむね本社を鈴鹿郡の式内天一鍬田神社に比定している。
島川と寺川の合流点近く、庄内小学校の北に鎮座する。
社伝によれば、往古は村のなかに鎮座されていたが、天正伊賀の乱の後、下宮代の地に移ったと伝えている。
下宮代の社地跡には、明治33年8月に氏子によつて建てられた石の社標があり、それには「延喜式内天一鍬田神社」と刻まれている。 旧地は南条の西500m。矢島川の沿い西、現地のほぼ真南とする。
明治初年に村社に列格。同40年8月20日、村内の40社を合祀して庄内神社と改称し、現地に祀つた。


由緒

当社の創祀については詳かにはし難い。近世の「亀城兎園記」等には、八島明神と記し、「三国地志」や他の地誌類をはじめ国学者の式社考証類は、おおむね本社を鈴鹿郡の式内天一鍬田神社に比定している。社伝によれば、往古は村のなかに鎮座されていたが、天正伊賀の乱の後、下宮代の地に移ったと伝えている。江戸時代を通じ近郷の氏神として、人々の崇敬をあつめた。明治40年8月20日、村内の40社を合祀して庄内神社と改称し、現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




庄内神社

当神社は「亀城兎園記」には矢島神社と記し「三国地誌」や他の地誌を始め国学者の式考証類は式内天一鍬田神社と比定している。社殿によれば、往古村の中に鎮座されていたが、天正伊賀の乱の後宮代の地に移ったと伝えている。元は天一鍬田神社と称してたが明治40年(1907)に、村内40社を合祀し、社名を庄内神社と改称し当地に祀られた。江戸時代から近隣の氏神として人々の崇敬を集め現在に至っている。

社頭掲示板



庄内神社

当社の創祀に関して、史料が少なく難しいですが、古代神社の戸籍簿といわれる延喜式というものがあり、延喜式内社という神社はこの神名帳に記録されています。
古代行政区画の鈴鹿郡には19の神社が記録されていますが、そのひとつに式内天一鍬田神社(しきないあめのひとくわたじんじゃ)という記録があり、当社所蔵には天一鍬田大神社と表記された木札があり、当社は延喜式に記録されていた神社だと考えられます。
近世の「亀城兎園記」(きじょうとえんき)には八幡明神と記され、三国地誌(1755年)やその他の地誌類をはじめ、国学者の式内社考証類は当社を式内天一鍬田神社としており、往古は村内に鎮座していましたが、天正伊賀の乱(1580年)により下宮代の地に移り、明治初年、村社に列格、明治40年の政府による神社整理により、村内の40社を合祀し、社名も庄内神社と改称し、平成15年には養蚕神社を合祀して現在に至ります。

公式HP



天一鍬田神社

天一鍬田は阿米乃比登久波多と訓べし○祭神詳ならず○原村に在す、(国史)今八幡大神と称す、
考証に、古語拾遺云、太玉命所率神、天目一箇命、伊勢忌都等祖、とあるを引り、

神社覈録



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