鈴鹿川の水源として川の集まるこの地が、川俣の社名の意にかなつており、更に、加太(かぶと)の地名を川俣の転化とする考えられている。 社伝によると、当社はもと中在家にあつたが、度々の洪水によつて現地に遷座したという。中在家の旧社地は、現在、「川俣神社古跡」の石標が立っているという。 しかしながら、当地は水田可耕地に恵まれず、また古墳等の遺跡もほとんど発見されていない。 古代に鈴鹿郡で有力な川俣氏族が領したところとしては、余りにも片寄つた山間僻地と思われる。 享保11年(1726)11月に起こった板屋の大火で社記・伝記等悉く消失してしまっている。口碑によれば垂仁天皇の御代天照大御神を伊勢に遷座の途次、鈴鹿郡小山宮において大比古命(川俣県造の祖)が味酒を奉ったとの伝承があり今も12月3日には味酒を朝日に献じる風習が残っている。 この加太の川俣神社が鈴鹿川の最上流に位置することから、他の川俣神社の祖となっていると古書に伝えられている。 |
川俣神社御創建の由来 川俣神社は延喜式神明帳(今から1080年程前の編纂)にその名を残し平安時代の昔から加太の地に御鎮座の由緒正しい古社であります。 当社には19柱の神々をお祭り申し上げておりますが、主神である大比古命は第8代孝元天皇の第一皇子で第9代開化天皇の御兄に当られ、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の御代を通じ四道将軍の一人として皇威の宣布と地方の開拓に大きな功績をあげられました。その後川俣の縣の造としてこの地方を治められた大比古命がお宮を造り神田、神戸を献上されたと伝えられています。 又命は味酒(おいしい酒)を大神に奉られたということで現在も12月3日には味酒祭を行っております。又2月1日を「二正月」と称し厄年の老若男女が近在から参集して祈願されますのは厄除、開運の御神徳によるものであり、又道饗の神即ち道路の守り神としても信仰されて来ました。 遠い昔から此の地方を見守り人々の命をはぐくみ育て、往き来する人々の安全を守り地元の多くの人々から崇敬の念を持ち、信仰を頂いております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
川俣神社 川俣は加波末多と訓べし○祭神大彦命歟○加太村に在す、(考証、俚諺)○日本紀、孝元天皇7年2月丙寅朔丁卯、立鬱色謎命爲皇后、后生二男一女、第一曰大彦命、〇倭姫世記云、垂仁天皇14年遷幸于伊勢國桑名野代宮、次川俣縣造祖大比古命参相支、云々、」姓氏録、(大和国皇別)川俣公、日下部宿備同祖、彦坐命之後也、また同、(山城国皇別)日下部宿禰、開化天皇皇子彦坐命之後也」 伴信友云、鹿伏兎郷ニアリ、スズカ川卜カブト川トノ岐合也、仍テソノ処ヲ川俣ト云、今転ジテ加太ト云フ、 氏人 続日本後紀、承和13年2月壬甲朔己卯、伊勢国言、鈴鹿郡枚田郷戸主川俣縣造継成、戸口役茂麻呂妻川俣縣造藤継女産男、其体自胸以上、両頭分裂、二人相対、四手相具、面貌美麗、頭髪甚黒、自腹以下、同共一体、生而一日死焉、 類社 大和國高市郡川俣神社の條見合すべし 神社覈録 |