酒井神社
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   【延喜式神名帳】酒井神社 伊勢国 奄芸郡鎮座
          (合祀)服織神社

   【現社名】酒井神社
   【住所】三重県鈴鹿市郡山町1759
       北緯34度49分8秒,東経136度32分18秒
   【祭神】豊宇賀賣命 保食神 大山祇命 品陀和気命 伊弉册命
       火産霊命 木花開耶姫命 宇賀魂命 菅原道真 武雷命 天児屋根命 斎主命
       姫大神 天忍穗耳命 活津彦根命 市寸島姫命 天津彦根命 熊野奇毘命
       天菩日命 多紀理姫命 櫛磐間戸神 豊磐間戸神 金山彦神 八街彦神
       八街姫神 多岐都命 千千比売命 稚産霊命 鳴雷命 大山祇命
       『勢陽雑記』『伊勢國誌』『古谷草紙』『背書國誌』酒君
       『神社覈録』祭神詳ならず
       『三國地志』「祭神三座、稻生の新宮と称す」
       『神名帳考証再考』栄(サカ)井水霊
       『伊勢参宮名所図会三』秦酒公

   【例祭】10月15日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天智天皇治下10年(871)創祀という
       保延5年(1139)神田寄進
       明治36年1月23日郷社
       明治40年10月神饌幣帛料供進社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「郡山大明神」「稻生新宮」と称していた
   【公式HP】 酒井神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・通殿・参籠所・手水舎・社務所

   【境内社】

集落の一角の平地の神社。若杉の叢林がある。伊奈富神社と祭神同じとの説あり。古く伊奈富神社を勧請ともいう。南の小谷より酒が湧出したとの伝あり。
鎮座地周辺は奄芸郡家の所在地とされ、付近には古墳群が多く、古代から中世に至る大集落跡も発見されている。
延喜式内社で西の宮、中の宮、東の宮の三社から成っていた。
古文書を多く保存しており保延5年(1139年)神田寄進の古文書等もあり、昭和56年(1981年)に文化財の指定を受けた。


酒井神社

当社の建立は飛鳥時代天智天皇治下10年(871)伊勢国造安芸県主大伴倉麻呂祭之とあり、同年秋9月直神原以南清水に酒の泉湧出たり、日増しに多く湧き遠く東に流れ小川となりその水を神社供え里人これを呼んで酒井川ときめこの社を酒井神社というに至れり。
又当社は古文書多く保延5年(1139)神田寄進の古文書等もあり昭和56年文化財の指定を受けた。
「獅子舞の由来」
郡山の獅子の由来は古く平安時代高倉天皇(平安時代後期)の承安4年(1171)正月後獅子3口を安鎮せりとある。その目的は悪鬼邪神を払い五穀成就家内安全等の祈祷にあり。
毎3年に式年大祭が行われ2月より初まり4月3日に終了するものであり、その舞方は勇壮にして荒々しく、しかも華麗と謂われ乱調、田楽、乱舞、獅子起、扇の舞、剣の舞、花の舞、四方舞、以上有り。
昭和59年11月吉日
酒井神社宮司
前田義方

社頭掲示板



酒井神社

社名の由来は神社の北方を流れる中ノ川(酒井川)によるといわれる。この鎮座地周辺は奄芸郡家の所在地とされ、付近には古墳群が多く、古代から中世に至る大集落跡も発見されている。社伝は天智天皇10年(671年)の創祀という。一説には近くの秋永にいたという信任の長者が伊奈冨神社を信仰し、住居近くに新宮を営んだという伝承から稲生新宮、郡山新宮さらに郡山大明神ともよばれてきた。延喜式内社で西の宮、中の宮、東の宮の3社から成っていた。当社には数多くの古文書が残されており、最も古いものは保延5年(1139年)のもので、白子から津にわたる栗真庄の田三反を当社に寄進したとある。明治40年付近の15社を合祀、次いで 翌41年には18社を合祀、更に大正5年に境内の2社を合祀した。

公式HP



酒井神社文書

昭和56年3月30日指定 酒井神社
酒井神社は、郡山大明神とも呼ばれ、伊奈富神社との関係も深く、稲生新社と言われたこともある。この文書は、平安末期の保延5年(1139)を最古とし、室町時代に及ぶ20通が指定されている。内容は、社領や神事に関するもの、在地豪族の動静を知り得るものもある。
左の写真は、保延5年の栗真庄の田寄進の下文で、この社も稲生社と同じく三社に分かれていて、酒井神社三社それぞれに田が寄進されたこどを示している。県内中世文書として貴重な資料である。
平成14年3月
鈴鹿市教育委員会

社頭掲示板



酒井神社

酒井は佐加為と読り○祭神詳ならず○郡山村に在す、酒井川と云あり、(俚諺)
連胤云、考証の説從ひがたし、按るに、越前國坂井郡坂名井神社同称にて、福井神を祭るにはあらぬか、猶考ふべし、

神社覈録



郷社 酒井神社

祭神 豊宇賀能売命 保食命
合殿
 天児屋根命 菅原道真 武雷命 金山彦命
 五男三女神 品陀和氣命 大山祇命 豊磐間戸命
 大日霊命 八街彦命 八街姫神 須佐之男命
創建年代詳ならすと雖も、神名帳考証に、(酒井神社、今云甲斐村此乎、大和國狭井大神荒魂神社、傳云、岡部忠澄領、岡部大神部之訛乎)と見え、神名帳考証再考に云く、「社號文字の如く酒を醸するに用ゆる井なり、神祇官に所祀福井、祈年祭祝詞の榮井、共に假字なり、酒は大古より重する者なれば、其井も崇め尊ぶべし、祀神水霊なり、社地末考、郡山と云ふ所に酒井川の字ありといふ、」神社覈録に云く、「酒井は佐加爲と読り、祭神詳ならす、郡山村に在す、酒井川と云ふあり連胤云く、考証の説從ひがたし、按ずるに、越前國坂井郡坂名井神社同称にて、福井神を祭るにはあらぬか、尚考ふべし」と附記せり、神祇志料に云く、「酒井神社、今郡山村に在り、郡山明神と云ふ、蓋是也、伝へ云ふ、稲生三社明神を移し奉る、故に名づけて稻生新宮とす」と云へり、共に奄芸郡(明治29年奄芸河曲の二郡を合せ河芸郡とす)十三座の一に列し式の小社たり、社伝によれば、往古当社鎮座の砌社南の小谷より醇酒湧出でしかば、当時は神酒にも供へ諸人にも給ふ、此水東に流れて遠く海に入る、酒井川と称し、此川に棲息する魚類を食するに酒の香を帯ぷと云ふ、酒井川今榮川と云ひ、五鈴遺響に云く、衣手山は郡山の丘にて榮川の邊なりとあり、顕仲が「ころもての山のふもとに立つ鹿のうらさびしきはあけぼのの聾」(夫木集)と詠みたる是なり、又参宮図会に「酒井神社は延喜式、奄芸郡に列す、今榮川の傍に在り、郡山明神と称す、相伝ふ、稻生神を移し奉ると、故に稻生新宮とも言ふ」と見ゆ、此外別に称ふべきなし、尚後の考定を挨つ、明治8年11月郷杜に列せられ、同41年村社横道下神社、同八柱神社、同八幡神社外に無格社二十八社を合祀すと云ふ。
社殿は本殿、拝殿、参籠殿等あり、境内坪数3971坪(官有地第一種)を有す、

明治神社誌料



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