当社の所在地については、諸書全く異説をみない。 創祀年代は未詳であるが、『丹生太神宮之儀軌』に天地開闢以来この地に坐すとある。 丹生山神宮寺に隣接して鎮座する。丹生神社の神宮寺として建立されたはずだが、むしろ神宮寺別当が殆んど神社を支配していたと思われる。 当地は水銀の産地として名高く、続日本紀に伊勢国より朱砂・水銀が奉献されたとの記事がある。水銀の産出は、遠く奈良時代に遡ることができ、聖武天皇が東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したという。丹生神社の御祭神は、古来その守護神として当社に奉齋せられた土神たる埴山姫命であつたと思われる。 天正年間の兵乱により本社炎上し、豊臣秀吉は、造船用材として当社の神木を伐採、蒲生氏郷は、天正13年以後3年間にわたり、当社の神木を伐採して松坂城の建築用材に使用した。 歴代の紀伊藩主は本社を厚く崇敬し、参拝の上、神供料を献ずること二回に及んだ。 また、この地の富商であつた長井氏一族は当社の維持発展に尽力した。 境内には伊勢椿の原木とされる椿がある。 |
丹生神社 丹生神社由来 祭神 埴山姫命・水波賣命ほか十六柱 延喜式の神名帳、飯高郡九座に列せられた由緒ある神社で、継体天皇16年(523)に鎮座したという。聖武天皇が東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの神に祈ると忽ち水銀が湧出したので、丹生明神と名付けた。又、嵯峨天皇が降雨を祈ったら霖雨があり、晴れを祈ったら、晴れたという故事により丹生大明神は祈雨・祈晴の神ともいう。 中世、伊勢の国司北畠氏が毎年参拝し、造営等の奉仕をした。その後松坂城主吉田大膳より慶長16年(1611)高三十石を寄進するとの寄付状が交付された。同年伊勢外宮権祢宜檜垣筑後が、当社神主をかね以降檜垣家が神主となった。(現在は異なる) 元和5年(1619)紀州藩主徳川頼惟宣から社領三十石を認められた。以後の藩主は自ら参向して国家安穏 五穀豊穣を願い金銀等を寄進した。安永5年(1776)紀州藩自社奉行の直支配になり境内は御免許地となった。また、延宝5年(1677)より伊勢神宮の遷宮の翌年その古殿材を拝領して造営した時代もあった。 明治41年1月21日境内社十数社を合祀した。 なお近接する神宮寺とともに水銀に関する遺物が保存され、両者は水銀を通じて深い関係にあることが推察できる。 丹生神社々務所 社頭掲示板 |
丹生神社 境内社の一つである式内社の丹生中神社の祭神は金山彦命・金山姫命という男女一組の鉱山神である。この祭祀は水銀取に直接結びつくものとして重要な意味を持っている。次の祈雨止雨祈願に結びつく祭祀はこれまた埴山姫命に次いで祭神とされる水波売命(水の神)である。 由 緒 当社の創始は、社伝によると継体天皇16年という。往古より当地は水銀の産地として名高く、この地の守護神として奉斎されていた。また、『本朝年代記』に嵯峨天皇弘仁10年(819)、伊勢丹生神に祈雨祈晴した記載が見られるように、当社は古よりその方面に霊験あらたかとされ、更に『延喜式神名帳』多気郡五二座搭載の1社にも数えられる。室町以降、伊勢国司北畠氏はじめ松阪城主古田重治、歴代紀州藩主から篤い尊崇を得た。明治41年4月14日、当社境内社の高野神社など24社を当社に合祀した。尚、明和年間(1764−72)以後今日に至るまで、社殿造営には神宮式年遷宮の際に拝領した古殿の用材を利用するのを慣例とする。 三重県神社庁 |
丹生鉱山 丹生(にう)という地名は、朱砂(硫化水銀でできた水銀鉱石、赤色)を産出する地名を示し、全国各地にある。特に、西南日本では、ほぼ中央構造線に沿って点在している。その水銀採鉱に携わったのが丹生氏である。三重県では多気郡勢和村にあり、今も丹生氏の守護神であるニウズヒメを祭る丹生神社が残っている。 勢和村にある丹生鉱山の歴史は大変古く、『続日本記』に「和銅6年5月に伊勢の国が水銀を貢いだ」と書かれている。また、『東大寺造立供養記』には、「奈良大仏建造用として伊勢国の住人である大中臣が水銀2万両を献じた」と書かれている。従って、この頃には盛んに採掘されていたと考えられる。また、平安時代には、丹生千軒といわれるほど発展し、建久9年には全国唯一の水銀座ができた。この頃、京の商人が水銀を運び、鈴鹿峠で奪われて殺されたという話や、『今昔物語集』に、水銀商人の話と、坑夫が落盤事故に遭ったが、菩薩の霊験で救われるという話が載っている。 また、『勢陽雑記』には次のように記されている。 「……丹生の家一千軒計り有りて、民屋富みたる景気なり。此所より古来暦書を編出す。水銀山有り。日域他地なしと云々。然れども、近年掘り絶えけると云々。」 水銀の製錬方法は、『丹洞夜話』によると、 「まず鉱石を砕き、首の細い徳利に入れて生綿を□につめる。次に別の口の広い徳利を用意し土中に埋める。そして鉱石の入った徳利のロを下向きにして口の広い徳利にかぶせる。そうして地上にある鉱石の入った徳利を火で熱すると水銀蒸気が出てくる。これを土中の徳利の中で冷やして水銀を溜めて取り出した」 と書かれている。 水銀の利用は、メッキに使ったり、朱砂の赤色をそのまま利用して顔料に使ったほか、「射和軽粉」が鎌倉時代に松阪市射和で作られ、化粧品(顔のシミを取り色を白くする)、梅毒の薬、シラミとり、堕胎剤等に使われた。 「射和軽粉」の製法は、釜に食塩を混ぜた赤土を入れて穴を空けて、ホツッキと呼ばれるもので蓋をして焼き上げる。次に、射和村の朱中山の赤土と食塩を混ぜて土団子にし、これに水銀を一滴落として釜の穴へ入れて、ホツッキをかぶせて焼いて冷やすと、結晶が蓋につく。(4Hg+4HCl+O2→4HgCl+2H2O)これを鳥の羽で集めて作った。 この軽粉は「伊勢白粉」として、伊勢神宮の御師が全国に伝えたため評判となり、鉱山が衰退した後も、他から水銀を購入して生産を続け、明治まで続いた。 鉱山については、明暦年間(1655-1658)の頃に書かれた『勢陽雑記』に「水銀山は他の地にないと伝えられているが、近年になって掘り尽くされた」と書かれている。また、『萩甫遺稿集』には、「何度か採掘されたが、続かなかった」と書かれている。したがって、江戸時代になって休山となったと考えられる。 明治になっても休山の状態は続いた。しかし、昭和13年に北村覚蔵が試掘をはじめ、有望な鉱脈を発見して製錬を試みたが途中で病死した。その後を継いで中世古亮平が再開した。そして昭和31年には、月産340kgに達したが、なぜかその後止めてしまった。 水銀の製錬法は、辰砂と石灰を混ぜ加熱し、発生した水銀蒸気を冷やして取り出した。(4HgS+4CaO→3CaS+4Hg+CaSO4) 昭和43年になると、大和金属鉱業が再開し、大規模な機械化を行い、45年には日産3トンになったが、昭和48年になると、櫛田川へ水銀流出の危険性が生れたため、閉山となった。 三重県立図書館、地域資料 |
丹生都姫神社 守護神丹生都比売 丹生一族は九州から瀬戸内紀伊半島から伊勢まで朱を追って移動した彼らの足跡を示すように丹生一族の女神である空海はその丹生都比売に導かれ当地を訪ね懐かしい勤操という名前との出合いに感激し「高野の聖地に伽藍建立の願い持っているがまず当地に神社佛閣を建立し衆生を救わん」と即ち錫杖を留めて神社と伽藍を建立した。丹生都比売は空海の守護神でもあるここに平成六年再建しました。 平成6年9月吉日 丹生山神宮寺 社頭掲示板 |
丹生神社 丹生は爾布と訓べし、和名鈔、(郷名部)丹生、(假字上の如し)○祭神丹生都姫神、(俚諺)○丹生村に在す、(同上)○頭注云、(紀伊國丹生條)一説云、丹生都姫天照大神也、坐和州丹生川之裔、故名舟生都姫也、後又顯伊勢國、○次に丹生中神社あり、 類社 紀伊国伊都郡丹生都比女神社の條見合すべし 神社覈録 |