阪内川南岸に鎮座する。集落の中の平地にあり、叢林目立っている 創祀年代は、詳らかでない。 かつて、伊勢湾に面する海浜附近にあり、附近一帯の漁民の崇敬をあつめ、漁労の神として崇敬されてきたものと思われる。明治6年3月、村社に列し、明治41年加世智神社と称し、同年10月22日、現在地へ移転。明治41年4月25日、神饌幣帛料供進指定社となる。 |
加世智神社 創設年代は詳ではないが、御巫清直の「伊勢式内神社検録」に明記されるを見るに、当社は、古来より地元民の信仰を得ていたと思われる。 また、大正14年1月に社掌三浦愛之助が著した「加世智神社由緒」には「背奈々浦の称は、往古この辺まで海にて漁猟を祈りたる社故に、今も造営の時には、松崎浦,漁師など近傍の漁場へ報告するなり、松坂の岡寺は往古この社の傍らに在りて鎮守の如久し言之」との伝承を残している。 これらの社伝より察して、かって伊勢湾に面する海浜付近にあり,その鎮座地よりして、付近一帯の漁民の崇敬をあつめ、漁労の神として尊崇されて来たものと思われる。 由緒別説 創祭祀年代は、詳らかでない。先に引用した大正13年の「加世智神社並びに合祀神社誌編纂材料」には、当社の旧所在地について,つぎのように記している。 「移転前ノ在社地タリシ大字石津村之名称ノ起源ヲ詮ズルニ,古来同村ノ東南二里人恐レテ鍬、鎌ヲ入レザル丘アリ。伝エテ連塚卜言ウ。コレニ依リテ考エルニ、能見宿禰ノ末孫石津連ノ塚ナルベシ、(新選姓氏録) シコウシテ,本村ノ名称ガ,コノ塚ヨリ起コレルハ明ラカナリ、(古老伝) 中略,又移転前ノ在社地タリシ小字世名浦ハ、古昔ハ安濃郡岩田川ノ南岸ヨリ度会郡二見村立石ニイタル迄ノ海浜四十八箇村ノ総名ナリ。シコウシテ,コノ四十八村ノ漁民ヨリ得ルトコロノ鮮魚ヲ御贄トシテ、日々社へ奉リシ成り。本社ハ往古ハ尤モ大社二座シタルコトハ四十八総村ノ総称ヲ唯コノ地二止ムルニテ考工知ルベキ事ナリト(伊勢名所参考)。伊勢名所参考二又イワク瀬名浦明神ノ宮二参ルニ石津村ノ田間丘陵二箇アリ 西方ナルハ、方域小ニシテ杉木三本アリテ岡寺山ノ旧地ナリ 東方ナルハ,方面モ広ク松ソノ他古樹モ多ク茂レリ是ナン瀬名浦明神ニテ小社一座マシマセリ(下略)又、大正十四年一月ニ社掌三浦愛之助ガ著シタ「加世智神社由緒」ニハ,瀬名浦ノ称ハ往古コノ辺マデ海ニシテ漁猟ヲ祈りタル社故今モ造営ノ時ニハ、松崎、猟師ナド近辺ノ漁場へ報知スルナリ。松坂ノ岡寺ハ往古コノ社ノ傍ニアリテ鎮守ノ如ク継松某ナルモノ奉仕セシ由イイ伝ウ。」 との伝承を残している。これらの社伝より察して,当社はかって,伊勢湾に面する海浜付近にあり、その鎮座地よりして付近一帯の漁民の崇敬を集め、魚猟の神として崇拝されて来たものと思われる。 参考HP |
加世智神社 通称:名残の天神さん 神紋:右三巴、 境内:1,300坪、 社殿:本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、神饌所、手水舎、休憩所、社務所、 氏子:2,700戸、鎌田町、大口町、猟師町、大塚町、町平尾町、大平尾町、久保田町、鎌田栄町、 北町、朝日町一区、朝日町二区、中央町、高町、築港町、石津町、荒木町、昭和通町、郷町、 崇敬者:1,000名 由 緒 当社の創始について詳らかにし得ないが、『延喜式神名帳』飯南郡中に「加世智神社」のことがみえている。当社の鎮座地は往古より明治41年まで、飯南郡港村大字石津字門之前であり、昔より主に漁民を中心として信仰が篤かった。明治41年10月22日、大字石津字堤下の八雲神社をはじめ34社を当社に合祀し、その上で当社地へ遷座し現在に至る。通称「名残の天神さん」で地元の人々に親しまれている。 なお、名残は昭和29年市町村合併以前の、当社地の字名である。 三重県神社庁 |
加世智神社 加世智は假字也〇祭神風木津別之忍男神、(俚諺)○石津村に在す、(同上) 神社覈録 |