第11代垂仁天皇の22年、皇女倭姫命が皇祖天照大神御鎮座の地を求められて、当地にお成りの節この地に櫛を落とされた、其の御櫛を奉祭という。 長くこの地に社祠が存したが、明治41年2月3日、同飯野郡山添村字宮ノ前の神山神社に、同村内にあつた櫛田神社と共に合祀された。 昭和29年、故地字南出の地に小祠が再興され、櫛田・櫛田槻本両社が神山神社より分祀されて、櫛田神社一社として祀られている。 |
由緒 第11代垂仁天皇の22年、皇女倭姫命が皇祖天照大神御鎮座の地を求められて、当地にお成りの節、御案内役として顕著なお働きをされた大若子命を当地の守護神としてお祀りするよう御下命になりました。 之が櫛田神社の起源で、中略、当社の社格は高く皇太神宮の所管で宮七院社十二社の巻頭三位に位置し櫛田の西方に櫛田大社として鎮座されました。 今も此の地を社と呼びます。長い歴史の中、幾多の変遷がありましたが、 明治41年12月神社合祀令により一時神山神社に合祀されました。 然し敬神深き氏子民の願望により昭和8年2月3日当野中垣内724番地にお迎え鎮座されましたのであります。 社頭石碑 |
櫛田神社 村社 式内櫛田神社 祭神 大若子命・櫛玉命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫命 本社は延喜式所載の神社にして祭神は大若子命(或る2・3の古書に櫛玉命ともあり)里俗大社と号す。 創建の年代を尋ぬるに人皇11代垂仁天皇御世22年癸丑年皇女倭姫命天照大神を奉載せられ此所に行幸の節大若子命に汝の国名を何問賜白佐久百張蘇我国五百枝刺竹田之国止白支。 其時倭姫命湯津爪櫛を川に落し給い流れ行くを大若子命に早く取揚よと宣ひ大若子命馬を早め馳付き櫛を取揚奉る。 倭姫命最喜悦給い茲に櫛田神社を定めて其の処を櫛田と改称し其の川を櫛田川と号け其の瀬を早馬瀬と仰せ玉いしとあり。 故に往古は内宮の所管にして大神宮御造替の年毎に使判宮主典各一人を遣し神税を以て修造し玉えり。則ち近暦儀式帳に見える如く宮七院社十二社とある其の一なれば大神宮所摂神社の中にも取別け尊き神社たり、故に古来は社地頗る広く大に其体載定まりしか、物変り星移りて今の形に至りしなり、其証は今に本社の周囲の耕地等皆な字を社と云えり。 社頭掲示板 |
櫛まつり 9月3日、櫛田神社(三重県松阪市櫛田町)で、県美容業生活衛生同業組合が主催の「櫛まつり」があり、大勢の美容師らが長年使った櫛やブラシ多数持参。宮司からお祓いを受けた後、関係者が玉串を奉奠(ほうてん)して、使い終わった櫛への感謝と美容技術の向上を願った。 新聞記事より |
櫛田神社 由緒欄に記載の通り、当社は伊勢の神宮に縁も深く、大若子命は外宮代々の禰宜であった度会氏の祖先神です。博多の総鎮守櫛田神社は当社の分社で、平成19年に創建1250年祭が執り行われました。当社では恒例祭典の他、毎年9月に倭姫命の櫛に因んで三重県美容業生活衛生同業組合主催の「櫛まつり」を、特殊神事として執り行っています。 由 緒 人皇第11代垂仁天皇の御代22年(紀元前8年)皇女倭姫命が 天照大神 を奉戴され、ご鎮座の地を探し求めて行幸された時、津あたりから伊勢志摩方面までを当地に在りし大若子命が道案内をされ、伊勢にご鎮座されるまで倭姫命の手となり足となって働かれました。同25年(紀元前5年)倭姫命は飯野高宮に居られましたが、ある時、田の中に櫛を落され、大若子命が拾ってさし上げました。倭姫命はその地を櫛田と名付けられ、櫛田の社を定められました。その後も大若子命は武人として数々の功績を残され、倭姫命は大若子命を櫛田神社のご祭神としてお祀りするようご命じになりました。大若子命は後に大幡主命と改名されております。 当社は皇大神宮(外宮)所管で、宮七院・社十二の内巻頭第三位の格式を持ち、当時は櫛田大社と呼ばれておりました。時代が移り明治41年12月、時の政府の一村一社制の司令により、飯野高宮神山神社に統合されましたが、敬神の念厚き氏子の運動により、昭和8年2月3日現在の地に再建されました。 三重県神社庁 |
櫛田槻本神社 櫛田は前に同じ、槻本は都岐毛登と訓べし、○祭神詳ならず〇豊原村に在す、(考証俚諺)今飯野郡に属す、○神鳳抄云、槻本御園、 類社 越前國大野郡槻本神社 神社覈録 |