国道42号線西、社務所と社殿の建つている間には、独川に注ぎ込む御手洗川の流れる深い谷となつていて、参詣するには谷を降ってまた上がる。 御巫清直は、明治2年に度会府知事の命を受けて、当地域を巡検考証し、古祝詞文や神樂歌より、栃原に所在する建比良辺神社(明治41年川添神社と改称)を相鹿牟山神社と推考した。 当社地の小字名を牟山と称し、式内社相鹿牟山神社論社の根拠となっている。 |
由緒 当神社は天手力雄命建日別命を鎮祭し、栃原村、新田村両郷の産土神として社名を建日別神社と称し、古来栃原の大宮五身懸宮と伝習され、近郷に其名高く明治6年3月郷社に列せられ、明治39年12月25日三重県告示第三百八十号を以て神饌幣帛料供進社となる。次いで明治40年12月16日県の許可を得て、川添村内の村社7社無格社4社境内社59社を合祀の上、川添神社と改称して今日に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
川添神社 御祭神 建日別命 天手力雄命 外38柱 当神社は、往古建日別神社と称し、第60代醍醐天皇の延喜の御代(約千年以前)勅命により制定された延喜式神名帳巻9に「牟山神社二座)と明記されており(牟山の地名は現在この土地の小字名)、御鎮座の時期は更に数百年余を溯るものと推定されるも詳らかならず。 古くから栃原の大宮、また五身懸(ゴミカケ)の宮と称えて近郊に其名高く、皇大神宮の古伝の神楽歌に、亦神宮の御塩殿(二見町御鎮座)の祝詞文にも当神社の名が現れており、由緒深き近郷屈指の大社であります。 明治6年5月郷社に列せられ、其後明治40年12月旧川添村各部落の諸社を合祀、社名を川添神社と改称現在に至る。 特殊神事 2月19日 ごみかけ祭(祈五穀豊穣殖産) 社頭掲示板 |
川添神社 旧社格は郷社、祭神は建日別命(産土神)と天手 力雄命をお祀りしている。 明治時代の川添地区と日進地区の各字内に社祀が あり、天照大神の他、大国主大神、少名彦名命、倉 稲魂神、埴安彦神等、三十余柱ほどが合祀して現在 に至っている。よく知られている五身懸祭は、産土 神など五柱の神々に五穀豊穣、諸業繁栄、氏子の安 泰を願う祈年祭であり、毎年2月19日に近い日曜 日に行われている。 社頭掲示板 |
川添神社 「五身懸祭(ごみかけまつり)」は、山の神の神事や仏教信仰と結びついた、五柱神(倉稲魂神、少名彦名神、大国主神、埴安彦神、天照皇大神)と産土神に五穀豊穣、諸業繁栄、氏子の安泰を祈願する当神社独特の祈年祭である。各神社で奉仕される祈年祭に、特殊な神事(献酒、弓射、万歳楽、苗松)や当日の参詣者も加わった、全国的にも珍しい祭である。栃原区と新田区の当番組によって奉仕され、神社へ参向する行列も見物に値する。 由 緒 大和朝廷成立期、伊勢・熊野周辺の国造であった建日別命は、栃原周辺の奴を討伐後、濁川に囲まれた牟山野(宮野)に住居を構え、栃原周辺を統治されました。江戸時代以前には、その住居跡にあった直径3尺の大榊を神籬木として『榊元神社』が鎮座しており、そこへ建日別命を産土神として天手力雄命と共に祀り、『建日別神社』と呼ばれるようになったことが当神社の創始と考えられている。 その後、併祀された山の神には正月に甘酒を捧げる神事が行われ、五社の小社では田植えの頃に御弊を捧げ、五穀豊穣と豊かな狩猟を祈る神事が行われており、『ごみかけの宮』とも呼ばれるようになった。 明治時代になり、旧川添村の各部落(高奈、粟生、上楠、下楠、神瀬、栃原、新田、柳原、千代)に祀られていた『八柱神社』など15社とその境内社66社を合祀し、郷社となり現在に至っている。 三重県神社庁 |