近鉄山田線斎宮東、参宮街道に面して鎮座する。 竹は、郡名あるいは郷名の「多気」に由来するものと思われ、和銅6年(713)5月の勅で郡郷名は二字の好字が用いられる以前はこの地は「竹」と称され竹首・竹連等の居住地であった。 もとは斎宮歴史博物館の南隣接の中垣内の地にあった。「郷社竹神社御址」の石碑が立っている。この旧地には江戸期に「八王子社」と俗称される社があった。 明治40年5月25日岩内の火地神社(式内社・火地神社の論社)、上村の八柱神社(式内社・天香山神社の論社。昭和45年古社地に分祀)など15社を合祀した。 明治41年9月5日竹川の中垣内から同東裏へ遷宮し、さらに同44年4月1日「野々宮」と呼ばれていた現社地へ合祀移転され、竹神社と単称した。 |
由緒 垂仁天皇の御代、竹連・竹氏という豪族、連は姓の祖、宇迦之日子の子、吉日子が天照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際に、その末裔が当社を創祀した。竹吉日子については、「皇太神宮儀式帳」に、竹の首吉比古の名がみえ、神社は櫛田川の古流祓川の東岸台地である竹川字中垣内(ふるさと地区)に祀られていた式内社である。斎王制度が固まっていくとともに、地名も「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年6月「斎王まつり」が行なわれる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
謡曲「絵馬」と竹神社 「伊勢参宮名所図会」に毎年大晦日に伊勢の斎宮で絵馬をかける行事が載っているが墨絵馬は雨を、白馬は日照りの占方を示すという。謡曲「絵馬」は、この行事を節分の夜とし、老翁と姥が人民快楽のため二つの絵馬をかけ並べ国土安穏を祈るというものである。 もとの参宮道のこの辻に絵馬堂があり、「絵馬川」という小川に「絵馬橋」もかかっていた。絵馬堂は明治の終りごろ廃され、その折り宮の加藤氏に譲られたが、終戦直後腐朽のため堂が焼却された。絵馬は佐々木氏が譲りうけ、大正のはじめ竹神社に寄贈したものが現在、竹神社の神宝となっている。かっての行事を伝える貴重な絵馬といえる。 謡曲史跡保存会 社頭掲示板 |
石灯籠と礎石の由来 此自然石灯籠は池村氏神の其の一つ饗庭の森八王子の宮の常夜灯であった嘉永7年の遷宮に際し氏子が記念に造ったものである。 之を造るには当時伊勢の国で有名な自然石灯籠を各地に見学し、又伐石の採取には池村の山林中をくまなく探し求めた、殊に台石の立石に使われている石は運搬中誤って二ツ池底に転落したものを師走の寒中に池の堤に大割木を山と積み焚置いて温を取り氏子等が交代で池底にもぐり該石に縄をかけ、之を引き揚げたと撰者は祖父から聞かされている。斯様にして造りあげたという当時如何に氏子等の崇神思想の高かったことがうかがわれる。 昭和37年池村より此宮に移転した自然石燈籠としては県下で稀に見る大燈籠である。 礎石 以前石灯籠の基礎石積の裏面に大きなる礎石が使われている此礎石は丹生上田野の営明寺の礎石である。 丹生大明神の儀軌に曰わく 延暦21歳次壬午沙門空海今参詣天照皇大神宮之砌依法華常明寺、彼寺善記元年、歳次壬丑継体天皇天朝在天照皇大神宮後勅託、建立七間一宇瓦屋云々とあり。 此常明寺の礎石なり。此礎石は撰者が田津田村大字津留岡山氏より譲り受けて此宮の御手洗場の側に景石として置きたるものを石工が何心なく使用せるもので幸にも礎石の表面を外部に出したは幸いというべし。 三重県下に於いての重要遺物である。 渡辺勝蔵 撰 社頭掲示板 |
竹神社 斎宮には第38代天智天皇のころより660年間、天皇に代って伊勢神宮に仕えた斎王がおられたが、斎王が住んでいた内院が当社の境内地に所在したのではないかといわれている。また「斎宮の世だめし」といわれ、馬が背追った稲束の色によって豊兇を占う「絵馬」が神宝として本殿に保管されている。 由 緒 第11代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじ、竹氏という豪族)の祖宇加之日子の子の吉日 古が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり多気郡一円を領して斎宮に住む。この竹氏の子孫が祖神宇加之日子・吉日 古を祀ったのが当社である。当社はもと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが、明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された。当社は旧斎宮全村はおろか多気郡全体の総祖神であるといえ延喜式神名帳その他古書にその名が載っている。 三重県神社庁 |
竹神社 竹は多氣と訓べし○祭神竹田臣祖歟○竹川村に在す、(考証、俚諺)○倭姫世記云、五百刺竹田之國、(儀式帳同)同記云、多氣連祖、宇賀之日子吉志比女吉彦、』姓民録(左京皇別上)竹田臣、阿倍朝臣同祖、大彦命男武淳川別命之後也、また阿閉臣、阿倍朝臣同祖、」さて此氏人は、三代実録、貞観15年12月27日戊午、伊勢國多氣郡人從五位下阿閉臣次子、從七位下阿閉臣雄継等賜姓朝臣、其先出大彦命之後也、 神社覈録 |
郷社 竹神社 祭神 長白羽神 合殿 八柱神 地主神 創建年代詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列し多気郡五十二座の一たり、神名帳考証に云く、「竹神社、卜部永本曰、竹田神社、竹川乾有称八王子社、大彦命、倭姫命世記に云く、多氣連等祖宇加乃日子之子吉志比女吉彦、儀式帳に云く、五百枝刺竹田乃國、姓氏録(左京皇別上)に云く、竹田臣、阿倍朝臣同祖、大彦命男武淳川別命之後也、また阿閇臣、阿倍朝臣同祖、三代実録に云く、貞観15年12月27日戊午、伊勢國多氣郡人從五位下阿閇臣次子、從七位下阿閇臣雄継等賜姓朝臣、其先出大彦命之後也、」神名帳考証再考に、「竹神社、延喜式印本の上層に云ふ、卜部兼永本作竹田、從ふべし、竹上社と有るは、上の字、田の字の誤也、此社今竹川村産神と祀りて、稲木村路頭の南に在、考証に、齋宮旧蹟の西に斎王の宮といふ森此歟と云、思ふに、此説不可なり、今の街道は中古よりの路にして、其昔西の方を往來しければ、齋王宮と云ふ森は、即齋宮正門の跡ならむ、假令不然とも、正門の傍に神社は有べからす、祀る神、世記に、多氣連等祖宇加乃日子之子吉比女吉彦と云ふ神、大神に参り合しとあれば、其祖の宇加乃日子を祀る成べし」と見え、神社覈録には、竹は多氣と訓べし、祭神竹田臣祖歟、竹川村に在すと云ひ、穂頭に齋宮式竹上兼永郷本竹田に作る」とあり、又神祇志料に、「竹神社(按本書一本竹を竹田に作る)竹上社と云ふ(延喜式)今竹川村稻木川の東道路の南に在り、蓋竹田臣阿閇臣等の祖、大彦命を祭る、凡其祭正月二日を用ふ」と見え、神名秘書には風土記を引きて、「難波宮御宇天皇丙午年、伊勢多氣郡、竹連磯真建此郡、神宮雑例集に云く、斎宮寮、在多気郡竹郷と見え、即ち齋王の御在所なるを以て竹都の称あり、散木集「ときはなる竹の都の石なればうれしきふしを数へてぞ見る」、又新勅撰集「呉竹の世々の都ときくからに君が千とせのうたがひもなし」と即是なり、類聚國史に云く、天長元年、多氣齋宮神宮に遠く便利ならざるを以て、度曾離宮を常斎宮とし、続日本後紀に云く、承和6年、齋宮災に罹れるを以て、又多氣宮をト定して齋宮とす云々、」大日本地名辞書に云く、「竹神社延喜式に列し、一に竹上神杜と曰ふ、今齋宮村大字竹川の八王子と云ふ祠此なり、蓋竹連の祖神ならん」と、社伝によれば、垂仁天皇の御世、多氣連の祖宇加乃日子の子吉日子、皇大神宮の行幸に供奉して此地に留り、子孫世々郡領に任す、依つて末裔の其氏祖を祀り竹神社と称し、変世変ることなし、明治2年3月10日今上天皇御東幸の際、勅使北小路右京権大夫をして代拝奉幣せしめ給ふ、同8年12月郷社に列せらる、同42年改称す、同41年村社八幡神社、同小倉神社、同織糸神社、同八柱神社三、同宇志葉神社、同廣橋神社及び無格社八社を合祀す。 社殿は一宇にして、境内坪数320坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |