霧島岑神社
きりしまみねじんじゃ


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【由緒】

神祇志料には祭神「瓊々杵命」とし、神名帳考証には、「多紀理比売命」とせり、然るに神社覈録には「祭神伊弊諾、伊弊冉尊、相殿地神五代、神武天皇(社伝・考証多紀理比売といふ今従わず)」と見ゆ、創建年代詳ならす、延喜の制式内小社に列す、当国四座の一たり、上古は霧島山上瀬戸尾に鎮座あり、仍て瀬戸尾権現、又霧島中央権現と称せり、三国名勝図絵、神祇志料、太宰管内志に曰く、
「名義は山名に依て負せたるべし、山名の義は未だ詳ならす、鮫島氏云、諸縣郡霜島神社は正殿に祭神第一瓊々杵尊、第二彦火々出見尊、第三鵜草葺不合尊、第四神日本磐生彦尊この四柱なり、又東ノ社日ノ少宮は國常立尊、西ノ社山王ノ社は國狭槌尊を祭る、四柱を合せて六所権現といふ、古老伝に欽明天皇の時慶胤仙人始て此山を開く、其後震火にかかりて亡びたるを村上天皇の時性空上人神殿又僧坊を作る、又文暦元年12月震火に羅りて焼亡たるを、文明16年島陸奥守忠昌朝臣兼慶法師に命じて社を中興せさせ給ふ、又百石の社頭を寄附し給ふ、云々」
鳥羽天皇の天永3年六條天皇の仁安2年山上大に火あり、社殿その災に罹り、四条天皇の文暦元年又災あり、加ふるに社傍の霊泉天之井と称せし用水涸れしを以て、瀬戸尾より乾十八町余の地に遷座あり、中御門天皇の享保元年山上また火を発して社殿焼亡せり、仍て小林郷の麓岡原といふ地の假宮に遷し、同14年今の地に宮殿を造営して遷座ありしといふ(神祇志料三国名勝図曾地理纂考)続日本後紀に「仁明天皇承和4年8月壬辰霧島岑神預官社」と見え、三代實録に「清和天皇天安2年10月己酉從五位上霧島神授從四位下」と見えたり、御神体は各木座像長一尺五寸、性空上人作と三國名勝図曾に見ゆ、地理纂考に曰く、
「夷守嶽の東一里許霧島山瀬戸尾ニ登ル事山下ヨリ二十五六町ニアリ、俗ニ瀬戸尾権現或ハ霧島中央権現トモイヘリ其ハ上古霧島山上瀬戸尾ニ鎮座アリツレバナリ神名帳諸縣郡一座ニ霧島神社トアリ社伝ニ曰ク上古高千穂山ノ絶頂ナル東嶽(俗にいふ予峯なり)火常嶽トノ間ノ瀬戸尾ニ鎮座アリシヲ鳥羽天皇天永3年壬辰2月3日又六條天皇仁安2年丁亥山上大ニ燃テ神社其災ニ罹ルト雖モ神像恙ナク宮殿造営アリテ猶山上ニ鎮座アリシヲソレヨリ123年ヲ経テ四條天皇ノ文暦元年12月28日ノ燃ニ又神社焼亡ス此時モ神橡恙ナシト雖モ用水涸レシニヨリ瀬戸尾ヨリ乾方十八町余山下霧島王子ト称フル末社ノ邊ニ遷座アリ凡478年許ヲ歴テ享保元年9月26日山上復火ヲ発シテ数日息マズ神社寺院スベテ焼亡ス然レドモ此度モ神体恙ナク坐マシシヲ守護シテ小林郷ノ麓ナル岡原トイフ所ノ假宮ニ遷奉リ14年今ノ地ニ宮殿造営シテ同年8月27日遷座アリシトイフ(享保元年神社焼亡し時神体を探索るに同じ厨子の中にをはしつる五柱の神像一柱灰沙の中にをはしますを見当り皆大に喜び其所砂礫を掘事七尺余にして四柱の神体をも得奉れりとぞ)」
明治5年縣社に列す、同7年小林郷々社夷守神社を霧島岑神社へ合祀し、同年8月更に霧島岑神社を夷守神社の跡に遷座し、縣社にして郷社を兼たり、同10年3月21日官幣大社霧島神宮(鹿児島縣大隅國西曽於郡東襲山村田口霧島宮の原鎮座)の摂社と定めらる。
社殿は本殿、舞殿、拝殿等を具備し、増内地は6645坪(官有地第一種)あり、往時は宝物若干を伝へしも、享保の山火に厄せられて悉く烏有に帰せりといふ(三國名勝図曾)。 因に記す、官幣大社霧島神宮(鹿児島県大隅国に祀曽於郡東襲山村鎮座)の明細図書に依るに「欽明天皇の御宇慶胤と云ふ人社殿を造営し、其後山嶺噴火の延焼に羅り爾来村上天皇の御代天暦年中再建、当時の神廟は家瀬戸尾と云ふ所なりしよし、其後文暦元年山頂噴火漸く神輿を供奉して待世に至り此所に暇りに鎮座、爾来250年を経て文明16年現今の宮地(官幣大社霧島神宮社地、に宮殿造営、其後222年を経て寛永2年総て炎上、其後10年を経て正徳5年5月再建、社領544石9斗余を有せり、云々」とありて、且式内霧島神社とせり、然るに神祇志料に云く、
「宮崎縣神社調○按鳥羽天皇天永3年山上大に火あり、六條天皇仁安2年神社災に罹り、四條天皇文暦元年又災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後遷座ありて終に今地(細野村夷守)に遷し奉ると云り、云々」
と、本社即ち官幣大社霧島神宮は此の社より八里二十町の距離にあり。

明治神社誌料



【由緒】

霧島岑神社 宮崎県小林市東方。旧県社。
夷守神社と同じ神々を祀る。かっては、霧島中央権現と称され、性空上人により創建されたという。別当寺として、天台宗瀬戸尾寺があった。明治5年(1872)県社に列し、同7年、郷社夷守神社を合祀、同13年、霧島神宮の摂社となった。
夷守神社 当社は宮崎県西諸県郡内に鎮座していた神社であるが、明治7年(1874)霧島岑神社に合併吸収された。旧郷社。
当社は、神日本磐余彦尊を除き、霧島神宮と同じ神々を祀っていた。かっては、夷守六仕権現と称され、別当寺として、宝光院という寺があったという。

神社辞典



霧島岑神社

◆創始、創建について
当神社の創始は、天孫瓊瓊杵命の天孫降臨に始まると伝えられ、日本最古の歴史的神社であるとされています。往古は霧島の高千穂の峰の中腹「脊門尾(せとのお)」の地に鎮座していました。社殿の創建については、いつの時代であったかを示す文献等が伝えられておらず定かではありません。霧島山の度重なる噴火の影響により度々社殿を焼失しましたが、その都度社殿が再建され、幾遷座の後に旧夷守神社のあった聖の地(現在地)に遷座され現在に至っています。
◆性空上人と霧島岑神社
天慶天暦(十世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折、山麓五方に夷守神社ほか四社(※)を創建し、本社である霧島岑神社(別名:霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称しました。また、当神社の鎮座地を瀬多尾といったので瀬多尾権現とも称し、別当寺を瀬戸尾寺と称したと伝えられています。

公式HP



【由緒】

「続日本書紀」に「平安時代初期の仁明天皇の承和4年、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預かり、のち従五位を授けられた」と記され、社の名が記されているほど、古く由緒のある神社。 天孫ニニギノミコトを主祭神に「皇祖日向三代」とその皇后の六神を奉斎する霧島六社、の本宮で、延喜式神名帳に日向国式内四座の一社である。創建は6世紀中期頃と伝えられ、高千穂峰の中腹、瀬戸尾に鎮座されていた。
鎌倉中期(文暦9年)、御鉢峰の大噴火により社殿が焼失し、数遷座後、明治初、脇社雛守神社を合祀し、現在地に鎮座になる。
平安中期の頃(天慶8年)、霧島岑神社に参籠した天台宗開祖性空が脇社の無いことを憂い、本宮を中心に「東霧島神社」「霧島東神社」「霧島西神社(現霧島神宮)」「荒獄神社」「雛守神社」の五社を建立したのが「霧島六社権現」と呼ばれる始まりと伝えられる。
三国名勝図絵には『霧島大権現宮』と六社の本宮であったことが記されているという。確かに鳥居正面から神域が垣間見える本殿の佇まいの、凛とした静寂の中には、本当にこの社でしか感じ得ないほどの荘厳さがひしひしと伝わってくる。
明治初頭になり、「霧島西神社」が現在の「霧島神宮」となり、六社の一つであった雛守神社は霧島岑神社に合祀され遷座された。霧島岑神社は、その後も本宮の御神体を祀る六所(社)権現の中心権現として、多くの参拝者を迎えてきた。
古の昔より人々を温かく見守り、御神体を祀ってきた幽玄な神社・霧島岑神社には、独特の佇まいと、人々の心に落ち着きと不思議な感動を与えてくれる何かがある。ぜひ自分の目で見、耳で聞き、どうか六感で感じてみてほしい。

由緒書き






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