大神山神社(奥宮)
おおがみやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大神山神社 伯耆国 会見郡鎮座
          (本社)大神山神社

   【現社名】大神山神社(奥宮)
   【住所】鳥取県西伯郡大山町大山 1
       北緯35度23分20秒、東経133度32分19秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】神代に八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事執行
       大永2年(1522)夏宮が火災焼失
       天文24年(1555)奥宮復興
       明治8年9月30日神仏分離

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は大神山を祀る
   【祭祀】江戸時代は「大山智明権現」「大山権現」と称していた
   【公式HP】 大神山神社
   【社殿】本殿権現造
       幣殿・拝殿・神門・社務所

   【境内社】下山神社

古来から神の住む山、大神岳と呼んで崇められ、同時に、山岳仏教の修験場として栄えた大山信仰の中心地だった。神仏習合の時代は大山大智明大権現といわれ、3院180坊・僧兵3000人を誇った。この僧兵は大山衆と呼ばれ、後醍醐天皇の南朝復興に多大な貢献したと云われている。
奥宮は少なくとも12世紀初頭までには創建していたと考えられる。しかし、当社の奥宮としてではなく、大山の仏徒が独自に大神山神(大貴己命)を大智明権現として祀る祠であつたと思われる。
明治8年9月30日神仏分離により、大智明橿現より本地仏が取り除かれ、、本社御祭神大己貴命の御分霊を奉遷して、本社の奥宮と定められた。


大神山神社奥宮の概要

伯耆大山は、天平5年(733)に成立した「出雲国風土記」に火神岳(大神岳)として見え、平安時代の「続日本後記」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」にも「伯書国大山神」と記録されていることからも、大山が古代から神の宿る山として信仰されてきたことがうかがえる。
『大山寺縁起』によれば、修験の地として始まった大山の山腹に金蓮上人によって寺が建てられるようになったのは、奈良時代の頃とされる。その後、天台宗の影響を受けて天台寺院となった。また、中門院、南光院、西明院の三院が12世紀までに成立した。伯耆大山寺として、この三院を総称して呼ぶようになったのは室町時代以降のことである。各院は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来を信仰し、三院の中心理念として地蔵菩薩が祀られた。その地蔵菩薩が大智明権現という称号を受け祀られた社が大智明権現社であり、現在の大神山神社奥宮である。
伯耆大山寺が、寺と神社に分かれるようになったのは、明治8年の神仏分離政策による大山寺号の廃絶によるもので、この時に伯耆大山寺から大神山神社へと名称が変えられることになった。明治36年には大山寺号の復興が認められたが、大智明権現社(奥宮)と下山社(下山神社)が神社名義のまま残ることになり、現在に至っている。
大神山神社奥宮は、承応2年(1653)に建立されたが、寛政8年(1796)年に火災で焼失し、文化2年(1805)に京都の大工、三輪平太によって社殿再建がなされた。壮大な権現造で、拝殿・本殿2棟の建造物を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊をつける。屋根は、総檜皮葺、入母屋造である。また、拝殿は壮大な唐破風をつけ、柱間は3つあり、中央入口の柱間は内側より広く、柱は円柱で50cm近くある。幣殿内の格天井には美しく彩色された234枚もの花鳥人物が描かれており、豪華を極めている。

由緒書



大神山神社

大山は、『出雲国風土記』に伯耆の国の「大神岳(おおかみたげ)」として出て来ます。
そして、この「大神岳」は、別に「大神山」ともいわれ、この「大神山」の「神」が省略されて、平安時代には、現在の「大山」になったといわれています。
さて、この大山は、古くから中国地方第一の高さ(1711.9m)を誇る霊峰で、その姿が雄大かつ神々しいところから、人々は「神のいます山」「神の宿る山」として崇敬してきました。そして、いつのころよりか、修験の徒が大山の中腹、海抜998mの地(大山町大山字中門院谷)に登り、修験の道場としての簡単な遙拝所を設けるようになりました。これが大神山神社のそもそもの始まりです。
修験の徒や、信仰厚い人々がここまで登って来て、間近に見える大山の頂上を直接遙拝し、大山そのものを御神体として崇(あが)めたのでした。 それが神社らしくなるのは平安時代になってからで、このころすでに大神山神社といわれていたようです。
ところが、この大神山神社は夏季にはともかく、冬季の積雪の折りには祭りを行うこともきわめて難しぐ、「麓に近い平地に冬場の神社を建てて、これを冬に奉仕する神社という意味で大神山神社の「冬宮」といい、それに対して大山中腹の大神山神社は「夏宮」と呼称しました。
そのころは神仏習合の時代で、神職のほかに別当職の社僧が神社に入って来て、同時に奉仕するという時代でした。大神山神社でも、僧侶たちは大山中腹の「夏宮」に大己貴神の本地仏として地蔵菩薩を祀って「大山権現」あるいは「大智明権現(だいちみょうごんげん)」と呼称し、その近くに数多くの寺院・仏閣を建てました。したがって、平安・鎌倉時代の大山は「三院百八十坊(寺)僧兵三千名」の一大盛況をきたしました。 そこで、大神山神社の神職たちは、それまでの岸本町丸山の「冬宮」をひき払って、福万原(現在の米子市福万)に移転しました。
ところが、福万原の「冬宮」大神山神社は、天正年間になって衰微したため、伯耆三郡の領主であつた吉川広家が大本坊の地(現在の米子尾高)に広壮な社殿を新築し、社領一千石を寄進しました。
この大本坊の「冬宮」も、広家が周防岩国へ転対後は、壮大な社殿であっただけに維持することが難しく、次第に荒廃してきました。そのとき、氏子の豪農郡八兵衛という者が不思議な夢を見て、その神夢に従って、もう一度場所を近くに替えて米子市尾高に遷宮したのが、現在の大神山神社の「冬宮」でした。承応2年(1653)のことです。
その後、明治政府は神仏分離政策をとったため、明治4年、この大神山神社は「冬宮」を本社とし、国弊小社に列せられました。次いで明治8年には、大山中腹の中門院谷に鎮座する大智明権現社から地蔵菩薩を取除き、大日堂(現在の角磐山大出寺)に移したので、今までの大智明権現社は、大己貴神を祀る大神山神社として復活し、その名も「奥宮」と名乗ることになりました。
こうして長い間、大山町大山の「夏宮」は社僧の管理する大智明権現社、数か所を点々とした「冬宮」は神職が主として奉仕する大神山神社の時代が終わり、「夏宮」「冬宮」ともに純然たる神職が奉職する大神山神社となり、このとき、「夏宮」を「奥宮」といったのに対して、本社の「冬宮」は「里宮」ともいうようになりました。
そして、この二つの大神山神社の祭事暦は、あとに記すとおりですが、たとえば長らく僧侶たちの務めていた大智明権現社の仏事「弥山禅定(みぜんぜんじょう)」は、再び神職が奉仕することになり、現在「古式祭」の「もひとりの神事」として、大神山神社の奥宮において神職・信者たちにより、毎年厳粛に執行されています。
また、大神山神社の本社では、六干坪の広大な境内に湧水を利用した小川や池を造り、色とりどりの鯉を泳がせています。
また、大神山神社の奥宮には.「日本一」が三つあります。一つは、自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで、わが国最長であること。二つは、国の指定する重要文化財クラスで、国内最大の権現造りの社殿であること。三つは、奥宮弊殿にある白檀の漆塗りが日本一壮麗であることです。

由緒書



大神山神社の3つの“日本一”

神仏習合の中で大山寺と大神山神社奥宮は勢力を拡大し、寺院僧坊が多数存在し、寺側の勢いが大きいものの祭事はすべて神職により執り行われてきました。明治初等の神仏分離令により大智明大権現の社殿を大山寺から分離し現在の大神山神社奥宮に至ります。これらの歴史を背景として大神山神社奥宮には三つの「日本一」があります。
1つ目は、大神山神社に続く道を自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで我が国最長であること。
2つ目は、社殿が国指定の重要文化財かつ国内最大の権現造りであること。
3つ目は、奥の宮幣殿にある白檀の漆塗りが日本一規模が大きくて美しいこと。ほか西日本最大級の神輿もあります。

山陰・大山(だいせん)の旅



大神山神社

伯耆大山は、天平5年(733年)に成立した「出雲國風土記」に火神岳(ほのかみのたけ:大神岳)として見え、平安時代の「続日本後記」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」にも「伯耆國大山神」と記録されていることからも、大山が古代から神坐す山として信仰されてきたことがうかがえます。
「大山寺縁起」によれば、修験の地として始まった大山の山腹に金蓮上人(きんれんしょうにん)によって寺が建てられるようになったのは、奈良時代の頃とされます。その後、天台宗の影響を受けて天台寺院となりました。また、中門院(ちゅうもんいん)、南光院(なんこういん)、西明院(さいみょういん)の三院が12世紀までに成立しました。伯耆大山寺として、この三院を総称して呼ぶようになったのは室町時代以降のことです。各院は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来を信仰し、三院の中心理念として地蔵菩薩が祀られました。その地蔵菩薩が大智明権現(だいちみょうごんげん)という称号を受け祀られた社が大智明権現社であり、現在の大神山神社奥宮です。
伯耆大山寺が、寺と神社に分かれるようになったのは、明治8年の神仏分離政策による大山寺号の廃絶によるもので、この時に伯耆大山寺から大神山神社へと名称が変えられることになりました。明治36年には大山寺号の復興が認められましたが、大智明権現社(奥宮)と下山社(しもやましゃ:下山神社)が神社名義のまま残ることとなり、現在に至っています。
大神山神社奥宮は、承応2年(1653年)に建立されましたが、寛政8年(1796年)に火災で焼失し、文化2年(1805年)に京都の大工、三輪平太によって社殿再建がなされました。壮大な権現造で、拝殿・本殿二棟の建造物を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊を設け、屋根は柿葺、入母屋造です。また、拝殿は壮大な唐破風をつけ、柱間は三つあり、中央入口の柱間は内側より広く、柱は円柱で50cm近くあります。幣殿内の格天井には美しく彩色された234枚もの花鳥人物が描かれ豪華を極めており、国の重要文化財に指定されております。

公式HP



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