初めは現在の奥宮の地にあつた。 冬季の奉仕が困難な爲、後に冬宮として日野郡丸山村地内の大神谷(現在西伯郡岸本町丸山)に移し、その後冬宮は、福萬原(現在米子市福萬)、尾高字大本坊(現在米子市尾高字大本坊)の地を経て現在の本社の地に変遷したとしている。 |
大神山神社 大神山神社小史 大山が文献に見える最初は、『出雲国風土記』の国引きの条です。八束水臣津野命が三つ縒りの綱を「高志(北陸)の都都の三埼」に掛けて、「国来、国来」と引っ張って来たのが美保の関です。そのとき、三つ縒りの綱は弓浜半島になるのですが、その付け根の所にそびえ立つ大山を杭にして、美保の関をつなぎとめたという文章に、大山は伯耆の「大神岳」として出てくるのです。 そして、この「大神岳」は、あとにも述ベるように「偉大なる神のいます岳」という意味であったはずです。 また、その「岳」は「山」を意味していたのですから、別に「大神山」ともいわれ、この「大神山」の「神」が省略されて、だいたい平安時代には、現在の「大山」になったといわれています。 さて、この大山は、古くから中国地方第一の高さ(1711.9m)を誇る霊峰で、その姿が雄大かつ神々しいところから、人々は「神のいます山」「神の宿る山」として崇敬してきました。そして、いつのころよりか、修験の徒が大山の中腹、海抜998mの地(大山町大山字中門院谷)に登り、修験の道場としての簡単な遥拝所を設けるようになりました。これが大神山神社のそもそもの始まりです。 こうした本殿のない遥拝所は、神社の始まる初期にはよくあるものですが、この大山でも修験の徒や、信仰厚い人々がここまで登って来て、間近に見える大山の頂上を直接遥拝し、大山そのものを御神体として崇めたのでしたもその後、少しずつ遥拝所に付設した建物が出来るのですが、それが神社らしくなるのは平安時代になってからと推測されています。大神山に建った神社ですから、このころすでに大神山神社といわれていたようです。 そして、さらに人々は、大山の神は出雲の国を中心に活躍なされた大己貴神(大国主神)であろうとし、この神を大神山神社の御祭神にしました。 ところが、この大神山神社は夏季にはともかく、冬季の積雪の折りには登ることも、留まって祭りを行うこともきわめて難しく、麓に近い平地に冬場をしのぐ神社を建てることを思いつきました。これは冬に奉仕する神社という意味で大神山神社の「冬宮」といい、それに対して大山中腹の大神山神社は「夏宮」と呼称しました。 「冬宮」の大神山神社が最初に建てられた場所は、現在の西伯郡岸本町丸山の「大神谷」であったと伝えています。しかし、そのころは神仏習合の時代で、神職のほかに別当職の社僧が神社に入って来て、同時に奉仕するという時代でした。大神山神社でもこのことは例外ではなく、僧侶たちは大山中腹の「夏宮」に大己貴神の本地仏として地蔵菩薩を祀って「大山権現」あるいは「大智明権現」と呼称し、その近くに数多くの寺院・仏閣を建てました。したがって、平安・鎌倉時代の大山は「三院百八十坊(寺)僧兵三千名」の一大盛況をきたしました。 そこで、大神山神社の神職たちは、それまでの岸本町丸山の「冬宮」をひき払って、福万原(現在の米子市福万)に移転しました。しかし、時代は同じく神仏習合時代でしたから、ここでも神職・社僧の合同奉仕の姿はかわりませんでした。 ところが、福万原の「冬宮」大神山神社は、天正年間になって衰微したため、伯耆三郡の領主であった吉川広家がそのことを嘆いて、大本坊の地(現在の米子市尾高)に広壮な社殿を新築し、社領一千石を寄進しました。 けれども、この大本坊の「冬宮」も、広家が周防岩国へ転封後は、壮大な社殿であっただけに維持することが難しく、次第に荒廃してきました。そのとき、氏子の豪農郡八兵衛という者が不思議な夢を見て、その神夢に従って、もう一度場所を近くに替えて米子市尾高に遷宮したのが、現在の大神山神社の「冬宮」でした。承応2年(1653)のことだといわれています。 その後、明治政府は神仏分離政策をとったため、明治4年、この大神山神社は「冬宮」を本社とし、国幣小社に列せられました。次いで明治8年には、大山中腹の中門院谷に鎮座する大智明権現社から地蔵菩薩を取り除き、大日堂(現在の角磐山大山寺)に移したので、今までの大智明権現社は、大己責神を祀る神山神社として復活し、その名も「奥宮」と名乗ることになりました。 こうして長い間、大山町大山の「夏宮」は社僧の管理する大智明権現社、数か所を点々とした「冬宮」は神職が主として奉仕する大神山神社の時代が終わり、「夏宮」「冬宮」ともに純然たる神職が奉職する大神山神社となったのです。このとき、本社の「冬宮」は、「夏宮」を「奥宮」といったのに対して「里宮」ともいうようになりました。 そして、この二つの大神山神社の祭事暦は、あとに記すとおりですが、たとえば長らく僧侶たちの務めていた大智明権現社の仏事「弥山禅定」は、再び神職が奉仕することになり、現在「古式祭」の「もひとりの神事」として、大神山神社の奥宮において神職・信者たちにより、毎年厳粛に執行されています。 また、大神山神社の本社では、六千坪の広大な境内に湧水を利用した小川や池を造り、色とりどりの鯉を泳がせています。それに昭和58年には境内に約百種、十万株の大菖蒲園を開園したので、6月中旬の開花期になると、近郷近在から花見客が多数押し寄せるようになりました。 また、大神山神社の奥宮には「日本一」が三つあります。一つは、自然石を敷きつめた参道の長さが約七百メートルで、わが国最長であること。二つは、国の指定する重要文化財クラスで、国内最大の権現造りの社殿であること。三つは、奥宮幣殿にある自檀の漆塗りが日本一壮麗であることです。 御祭神 本社(里宮) 大穴牟遅神 相殿 大山津見神 須佐之男神 少名毘古那神 末社(朝宮)大山津見神 足名椎神 手名椎神 須勢理毘売神 天之菩卑能命 品陀和気命 菅原神 奥宮 大己貴神 末社(下山神社)渡辺照政朝臣 末社(横手神社)速須佐之男命 大山咋神 山神 徳川家康朝臣 御神徳 本社の大穴牟遅神、奥宮の大己責神はいずれも大国主神の別名です。したがって、その御神徳は神話・伝説が示すように「国土開拓の神」「五穀豊穣の神」「牛馬畜産の神」「医薬療法の神」として有名です。その御神徳の及ぶところは広大無辺にして、人々の厚く信仰するところです。 由緒書 |
大神山神社 大神山とは、神社が鎮座する「大山(だいせん)」の古い呼び名です。 大山が文献に登場する最初の書物は、八世紀(奈良時代)前半に編纂された「出雲国風土記」で、国引きの条の中に「國に固堅め立てし加志は、伯耆国なる大神岳是なり」と国を引き寄せる綱(鳥取県の弓ヶ浜半島)をつなぎ止める杭として、伯耆国の「大神岳(火神岳)」として出てきます。ちなみに今のように大山と呼ばれるようになったのは平安期以降と思われます。 中国地方の最高峰であり、独立した優美な山容を持つ大山は、神の宿る山として古くから人々の信仰を集めてきました。ふもとに暮す人々はもとより、海を渡ってきた人々からもその神々しさは格別なものが在ったに違いありません。 主祭~の大己貴命は大山を根拠地として国土経営の計画をお立てになりました。「神祗志料」左比売山神社の条には「云々、昔大己貴命、少名彦名命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御坐、出雲國由来郷に来坐して云々」と書かれており、大山の山頂に立って雲の上から草昧の国土を見下ろし国見をされて国造りを相談なされたと伝えています。 大山にいつ頃から神社があったのかはわかりませんが、古来信仰を集めていた大山において、頂上を拝める中腹に遙拝所(磐座・磐境等)を設けたのが始まりと思われます。こうした山そのものをご神体として崇めることは日本各地によくあったことで、多くは本殿を持ちませんでした。なぜならば古来の日本の信仰では神様が宿られるのは自然そのものであり、特別にお入りいただく建物は必要なかったからです。伝承によれば大神山でも建物が建ち始めたのは崇~天皇(西暦300年頃)あるいは応神天皇の御代(西暦380〜390年頃)とも言い伝えられておりますが、遙拝所に付随する簡素なものであったと思われます。仏教の影響のもとに本格的な社殿が建てられるようになったのは平安期頃からです。なおその後も本殿は無く、本殿が建てられたのは江戸時代(1701年)になってからです。 奥宮の社殿は寛政八年(1796)に火災に遭って消失し、現在の社殿は文化二年(1805)に再建された物です。この社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体化し、それに長廊がT字型に付くという独特の形をしており、内部は権現造で柱・長押には金箔に似せた白檀塗りという技法で彩られ、側面には天女の壁画、格天井には花鳥風月が描かれています。 (奥宮のページ参照・国指定重要文化財) 昔はこの拝殿には神官僧侶等特別な人以外には入れず、一般の人々は長廊までで参拝していました。 仏教が日本中に広まってくると、その影響下に神職と僧侶が同じく神様に奉仕する「神仏習合(混淆)」の時代となり、平安期には大山にも仏教が入ってくるようになました。僧侶は大神山神社の御祭~である大己貴命に地蔵菩薩を祀って「大智明権現」の名を称して神仏を共に崇めることとなり、近くに多くの寺院を建て、平安鎌倉期には三院一八〇坊僧兵三千とまで興隆するようになりました。 しかしこの奥宮の地は標高千メートル近い高地であり、冬には積雪が数メートルにも達する所でありましたので、昔に於いては冬季の奉仕は非常に困難な場所でありました。そこで冬でもお祀りする事が出来るように、川沿いに数q下がった大神谷(現在の伯耆町丸山地内)の地に社を建て、これを冬宮と称し、本来の大山中腹の社は夏宮としました。その後ここでも冬季の神事は厳しく、手狭にもなったので、さらに下がった福万原(米子市福万)に移転しました。その後この福万原の社は戦国時代になると戦禍や社会の変化で衰退し、天正年間(安土桃山時代、十六世紀後半)に領主吉川広家により大本坊(米子市尾高地内)の地に社殿を築きました。しかしこの社は八千坪という広大な社地を持っていましたので、吉川氏が岩国に移封された後は維持が困難になり荒廃していきました。 そこで氏子であった中間庄の豪農郡八兵衛が神夢により、場所を尾高の現在地に移して承応二年(1653年)遷座をして冬宮としたのが現在の大神山神社本社です。 神仏習合の時代は長く、江戸時代まで続きましたが、明治時代になると政府により神仏分離令が出され、明治四年に尾高の冬宮は国幣小社に列せられ「大神山神社本社」となりました。ついで明治八年に大山の夏宮(大智明権現社)より地蔵菩薩を除き「大神山神社奥宮」として純然たる神社となりました。このとき地蔵菩薩は大日堂に移され、現在の大山寺になっています。 このように大山は昔から自然信仰・山岳信仰の山として、また神々・祖霊のお集まりになる神山として崇められてきました。 現在でもこの地方に災害が少ないのは大山さんのおかげと言って大山に向かって手を合わせる人も多くいます。 公式HP |
大神山神社 1000年前の延喜式に宗形神社とともにその名が残っている格式高い古社、社殿は、岸本町丸山から福万原を経て、江戸時代に尾高に移されたという。神社には津和野城主下名氏が奉納した播州長船住兼光の銘がある長さ24.8cmの短刀が伝わり、国の重要文化財で、東京国立博物館に寄託されている。境内入口の大灯籠は、会見郡内西伯耆の有志が献納したものである。参道の横にはハナショウブ園があり、6月中旬が見頃となる。 大山寺の大智明権現は、明治の神仏分離の結果大神山神社の奥宮と定められた。 米子市 社頭掲示板 |