大神山神社
おおがみやまじんじゃ


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【由緒】

神代の昔八束水臣津野命及び大己貴大神が大山頂上に於て神事を執行せられし以來御神霊ましますとして御神系の方々が其祭祀に奉仕せられ、爾来大山中腹の現今の奥の宮所在地に磯域の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯続日本後記に承和4年2月戊戌授伯耆國無位大山神從五位下又文徳實録に齊衡3年8月乙亥加伯耆國從五位下大山神正五位下、又三代實録に貞観9年4月8日丁丑授伯耆國正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式に伯耆国會見郡大神山神社とあり、又出雲風土記に固堅立加志者有伯耆國大神岳是也とあり、その大山といひ大神山といふも同一の山なり、かくて年月を経るに随ひ、社殿建立を見たれど、冬季積雪の期は奉仕上不便多かりしを以て、西南二里計下方の日野郡丸山地内に冬季奉仕の社殿を造営し、夏季の奉仕は山上にて故の如し、現今に至るまで丸山地内の旧地を大神谷と称し遺跡今尚存せり,此の時代の末期即ち奈良朝の中頃となるや神仏混淆の神社となり、夏宮の方を大山権現と称し、冬宮の方を二宮大明神と称へたりしが、冬宮も神佛混淆の社としては社地狭溢なりしかば、此処より約三十町を下りたる福万原に移遷して宏壮なる社殿を造営したるも、戦國の世となり兵焚に罹り久しく復興出來ざりしを、吉川廣家当國の領主となるや之を慨き、父元春の築かれたる尾高城の附近に奉遷造営せり、その地を現今大本坊と称せり、然るに徳川幕府の時代となるや、神領寺領を天領とさるるに當り、米子城主と夏宮の院坊との間に葛藤を生じ、冬宮に於ける神職社僧の同時同所の奉仕は分離せられ、時の社職は放逐せられたる等の事ありしを不吉となし、氏子なる仲間ノ庄の豪農郡八兵衡といふ者議を起して現今の地に新に社殿を建てて奉遷せり、時に承応2年なり、明治4年に至り国幣小社に列せらる。

鳥取県神社誌



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