往古、今立郡五分市村池田に須波阿須疑神社三座が鎮座。 中古、三柱の祭神を分かち三社に分離。 須波阿須疑神社三座の位置は、本宮は今立郡五分市村第3号池田道24番地に鎭座、上の宮は池泉第4号字諏訪上割1番地鎭座の諏訪神社(現在地)、下の宮は五分市村第11号南西村10番地鎭座の諏訪神社であつたと云う。「明治13年編纂の神社明細帳今立郡の部」 小山田神社:余川町方山はかって小山田邑と称し小山田神社があった。小山田神社に祀られていた「聖観音菩薩座像」(平安後期作と推定)が味真野神社に安置されている。 |
味真野神社 須波阿須疑神社と呼ばれていた五分市の総社を中心に周辺の10社を合祀し明治4年に味真野神社と改称、祭神に継体天皇を祀る。 社頭掲示板 |
木造聖観音菩薩坐像 市指定文化財 味真野神社 木造聖観音菩薩坐像 昭和46月1日指定 本像は余川町の神社から移されてきたものとされる。 浅い彫り口で柔らかな肉付けの穏和な像容で、小振りな目鼻口のやさしげな顔が特徴である。 こうした作風から平安時代末期の作と推定される。 武生市教育委員会 社頭掲示板 |
鞍谷御所址 市指定文化財 鞍谷御所址 室町末期の鞍谷氏の館(鞍谷御所址)の一部である。現在は味真野神社の境内をコの字に囲むようにして北・西・南面の土塁と、北・西面の空掘を残している。 いい伝えによれば、古代の男大迹王(継体天皇)の宮居の跡といわれ、中世になっては足利将軍義満の次男義嗣が上杉禅秀の乱(1416)に連座して殺され、その子嗣俊がこの地に住み、鞍谷氏と称し三代栄えたという。 最近の説では、斯波義俊の館跡といわれる。義俊は、応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉の子息で、朝倉氏によって名目上の守護として越前に迎えられ、はじめ一乗谷に在住したが文明18年(1486)にはこの地に移っている。 子孫は代々鞍谷氏を称し朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係をむすんでいった。 社頭掲示板 |
味真野神社 謡曲「花筐(はながたみ)」と味真野神社 謡曲「花筐」は、雲の上人と里の女との隔てない恋を美しく描写した狂女物です。 武烈天皇が崩御され、越前国味真野におられた男大迹皇子が選ばれて皇位を継ぐ事になり、寵愛されていた”照日の前”に、文と花筐を形見として残されました。 皇子は即位して継体天皇となられ、在る日の御幸の折、狂い歩く女をお見かけになりました。 持っている花筐から、皇子を慕う”照日の前”と分かり都に連れて帰られたのです。 この味真野神社は男大迹皇子の御所跡で、継体天皇をお祀りし、皇子と”照日の前” との、ロマンスのあった地として、謡曲「花筐」発祥の地にふさわしい所です。 謡曲史蹟保存会 社頭掲示板 |