味真野神社
あじまのじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

『武生市史資料編 社寺の由緒』の味真野神社の項に以下のようにある。
由緒「該社は往古須波阿津疑神社三座の内、中央の一座の大神なり、当社より東万五十七間を距て諏訪神社あり、南の方三町を隔て池泉村の地内、副の宮と称して諏訪神社あり、此両社は須波阿津疑神杜三座の内、二座と申伝該三社の原は一社にて三座なりしを、中古、年月不詳、分て三社となして、祭神大国主神なる ゆへに総杜明神と崇めたる由、古老の口碑に伝ふと雖も、挽近伊弊諾神社と称し来りし故、明冶十二年九月二十四日、依願総社神社と改称許可。
「明治四十年三月六日、福井県の許可を得て同村五分市臼場三十四番地鎮座、野々宮神社を合併せり」
「明治四十一年六月十七日、福井県の許可を得て、総社神社を昧真野神杜と改称す。」
「四十四年十一月七日、由緒訂正許可、別紙の通り。」
「祭神愛璽命は、村社小山田神社として同部味真野村余川宮の下五十八番地に、応神天皇の一座は、同区字南三十一番地に無格社八幡神社として、一座は同村池泉字堀割四番地に無格社八幡神社として、伊弊冊尊の一座は、同村上大坪字清水山七十八番地に村社白山神社として、一座は同村野大坪字東畑十四番地に村杜白山神社として、天照大神の一座は、同村余川上境谷二十番地に無狢社神明神社として、一座は同村上大坪字清水山十九番地無格社大神宮として、菅原道真は、同村余川字上手四番地に無格社菅原神社として、大己貴命、建御名方命、事代主命は、同村池泉字諏訪上割一番地に村社諏訪神社として鎮座の処、明治四十一年一月二十三日、福井県の許可を得て本社に合祀せり、同日、許可を得て同村五分市池田道二十四番地より此地に移転す、」
「同年六月十七日、訴可を得て総社神社を改て味真野神社と称し、」


【由緒】

更にその後に貼り紙があり。
由緒 当社は元本村五分市第三号字池田道二十四番地に鎮座し、古昔より須波阿須疑神社と称し著名なりしか、中古、祭神の三柱を分ち三社としたる其本宮なり、(一杜11地泉第四号宇諏訪上割一番地鎮座の諏訪神社、之を上の宮と称す、一社は五分市第十一号南西村十番地鎮座、諏訪神社之を下の宮と称す)而して何れの年代よりにやありけん、別社号を総社、又、伊弊諾神社とも称したりしより、明治十二年九月二十四日、石川県の許可を得て総社神社と改称し、明治四十年九月六日、福井県の許可を得て五分市第二十二号字的場三十四番地に鎮座の村社野々宮神社を合祀したり、野々宮神社は継体天皇第六の皇女佐々宜姫の尊、父帝の御即位に際し斎王に立たせ玉ひ、味真野郷に座し御潔斎在らせらるゝこと三年、後ち伊勢斎宮に入らせられたるに依り、郷人御宮趾に同皇女及父帝継体天皇を祭祀したるものなりと伝ふ、其後、明治四十一年一月二十三日、更に福井県の許可を得て本村余川第二号字宮の下五十八番地鎮座、式内村社小山田神社、祭神愛蔓命、又の御名勝手の神、池泉第四号字諏訪上割第一番地鎮座、諏訪神社、祭神建御名方命、大己貴命、事代主命、大坪第十五号宇清水山七十八番地鎮座、村社白山神杜、祭神伊弊冊尊、野大坪第八号字東畑四番地鎮座、村社白山神社、祭神伊弊冊尊、余川第三十三号字上手四番地鎮座、無格社菅原神社、祭神菅原道実公、同区第三十五号字上境谷二十番地鎮座、無格社神明神社、祭神天照皇大神、池泉第二十一号字堀割四番地鎮座、無格社八幡神社、祭神応神天皇、大坪第五号字清水山十九番地鎮座、無格社大神宮、祭伸天照皇大神、余川第二十六号字南三十一番地鎮座、無格社八幡神社、祭神応神天皇の村社四社、無格社五社の祭神十一柱を合祀し奉り、社号を明冶四十一年六月十七日、許可を得て味真野神社と改称し、社地を池泉区第二十一号字堀割十八番地、旧活井祇御所跡と称する地に奉遷したり、本社地たる活井祇御所は、継体天皇御即位前、男大迩皇子と称し奉り潜龍の際、当国高向の里より移りて此所に座し、妃目子媛を納れさせ玉ひて数王子数皇女を挙けさせ玉ひしに、中にも第一の皇子匂大兄広国排武金日尊(御諡号は安閑天皇)は匂の里(今の真柄区)に、第二の皇子桧の隈高田武小広国排盾尊(御諡号は宣化天皇)は桧皇谷(今の桧尾谷区)に座し、父帝を補佐し玉ひ、後、遂に皇統を継承し玉ふに至り、第六の皇女佐々宜姫命は斎宮に立たせ玉ふ、然るに帝は御仁徳厚く、常に済民救恤を以て御心とし玉ひ、当時当国は洪水汎濫し、万民塗炭に苦しむこと屡々なるを煩はし、之を憂ひ、大に治水の工を起して国内の三大川を修め、荒廃地の開拓を奨励し玉ひたれは、礫地沼沢も変して良桑田となり、五穀豊穣、万民堵に安するを得たりと云ふ、其鴻業偉績は載せて史乗に詳かなる所、而して郷民には専ら農耕桑蚕麻績の業を授け玉ひて撫恤せられたれは、榛芥の蔽ふ所狐狸の棲息する地も立ろに開けて良圃美田となり、産業大に進み万民子来し物貨幅湊して惣ち郷邑都市と化し殷賑を極むるに至りたりと云ふ、聖徳の沃潤する所、爾来一干四百余年を経るも、活井祇御所の遺跡は礎石塹濠旧態を改めす、竹草繁茂すれとも土俗敬畏して農夫鍬を入れす、牧童も牛馬に食ましめす、今日に至る迄尚ほ厳然として存したるを以て、氏子等相謀り、此霊地をトし社殿を移し、一は以て祖神の祭祀を厚くし、一は以て帝の功業偉績を紀念せる、此御遣趾を無窮に存し、洪恩を万世に伝へて益々崇敬を加へんことを期したる所以なりとす、大正元年十月二十四日、同村同字第二十一号字堀割拾五番の弐鎮座、御所神杜、公認の上合併許可す。」


【小山田神社】

小山田神社について以下の記事が書かれている。
「石川県管下越前國今立郡余川村五十八番地字宮ノ平
村社 小山田神社
祭神 愛蔓命 又、勝手大明神とも云
由緒 不詳、古老の口碑に存するなし
社殿間数 六尺四方
境内坪数 百五十九坪
氏子戸数 七十八戸
明冶四十一年一月二十三日、同村五分市、村社総社神社に合併」





戻るボタン


越前国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録