神体山である権現山(326m)の頂上に奥宮がありこの地は里宮。奥宮には大滝神社と岡太神社の本殿が並び立っている。里宮は1本殿に2社の額を掲げる。 今立郡神社誌に「元正天皇の養老三年(719)、泰澄国内巡錫のおり当地の霊場を相し大徳山(権現山)を開き、社殿を造営して二神を奉斎し大瀧児大権現と称し、山下に大瀧寺を創立し山上山下に各七堂伽藍を建て社僧社人四十八宇を設け、別に山麓の山伏六人を置き神事をつかさどらしめたり。 元正天皇御不予にて泰澄に加持の勅命ありし際、当社に祈願をこらし神徳顕著の故をもって 「日本第一大瀧権現」 の御宸筆を賜りければ、世人は更なり代々国司領主の信仰ますます厚く、判物をはじめ寄付の宝物もまたすくなからざりき。 しかるに、天正年中(1572〜1592)織田信長の部将瀧川一益の兵火にあい、社堂僧坊及び民家などほとんど鳥有の災にかかり、山上山下合わせて三社を残せるのみ。 この時、社僧社人皆遁散し霊宝判物もほとんど焼失せり。 しかれども神体は区民安全の地に奉遷したり。 その後漸次社殿の再建を行い、元禄元年(1688)に及びて山上山下十五の棟を数えしが、猶旧時の盛観には及ばず。」とある。 |
大瀧神社 大瀧神社 紙祖神岡太神社 御祭神 旧県社 大瀧神社 国常立尊 伊弉諾尊 式内社 紙祖神 岡太神社 川上御前(岡太大神) 当神社は神体山である権現山(323m)の山頂付近に建つ奥の院(上宮)と里宮(下宮)とから成り立ち、奥の院には大滝神社と岡太神社の本殿が並び建っている。この山麓にある社はその両社の里宮である。大滝神社の創建は、社伝によれば、推古天皇の御代(592−638)大伴連大滝の勧請に始まると伝えられている。 ついで、奈良朝に至って元正天皇の養老3年(719)、越の大徳と称せられた泰澄大師がこの地に来り、大徳山を開き、水分神であり紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神佛習合の社を建て、大滝兒大権現、または小白山大明神と称し、その別当寺として大滝寺を建立し、社僧を置き神事を司らしめらことを伝えている。 岡太神社は、この村里に紙漉きの業を伝えたとされる川上御前を祀り「延喜式神名帳」(926)にも記載されている古社で、往古よりこの神域に摂社として祀られた。この紙祖神としての川上御前に対する里人の信仰は篤く、神の教えに従い古くから大滝神郷一円を中心に、優れた紙を漉いてきた。 中世には大滝寺は平泉寺の末寺となり、四十八坊の堂塔伽藍が山頂、山麓に並び、社僧も六、七百人を擁して隆盛を極め、神領七十余町、日野川以東の村落四十八ヶ村を氏子とするにいたった。南北朝時代には足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退するが、室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く、再び社運は興隆した。天正3年(1575)、織田信長の一向一揆攻略の際再度兵火に会い、一山ことごとく灰燼に帰したが、その後に領主となった丹羽長秀の保護により漸く復興することになる。 江戸時代には、初代藩主結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建された。その後、老朽化により天保14年(1843)には江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮の本殿、拝殿が再建された。明治維新後、神佛分離令によって「大滝児大権現」は大滝神社と改称され、昭和3年には県社に列せられ今日に至っている。 なお、大正12年7月には、大蔵省印刷局抄紙部に摂社岡太神社の御分霊が奉祀され、紙祖神川上御前は名実ともに全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。 昭和59年(1984)5月21日、現里宮の本殿・拝殿がその歴史・記録の確かさと建築の美しさを認められ、国の重要文化財として指定を受けた。 さらに、平成4年(1992)5月、神門・回廊・奉楽殿が造営され、ますます神威が高まり、調和された輪奐を遺存するものとなった。 祭礼 春例祭 3月3日−5日 秋例祭 10月11日−13日 式年大祭 (御開帳)33年目毎 御神忌 (中開帳)50年目毎 文化財 重要文化財 本殿・拝殿 一棟(天保14年建立) 文化財(県・町指定) 奥の院 岡太神社本殿(江戸初期再建・町指定) 奥の院 大滝神社本殿(江戸中期再建・町指定) 神宮堂 木造虚空蔵菩薩像(平安時代・県指定) 観音堂 木造十一面観音坐像(平安時代・町指定) 天然記念物(県指定) 大杉 (奥の院付近)根回り9.8m 高さ23m ぜんまい桜 (同)根回り4.5m 高さ18m ブナ社叢林 ( 同 ) 社頭掲示板 |