大瀧神社
おおたきじんじゃ


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【由緒】

大瀧神社は加賀の白山、福井の平泉寺に次ぐ修験場の霊場で明治元年まで正一位小白山大瀧六所権現児御前と称えられ、神領70余町、日野川以東の村落48ヶ村を氏子とする国内有数の大社であった。
その創始は社伝によると、推古天皇の御代(593)大伴連大瀧の勧請に始まると伝えられ次いで鎮護国家法師で白山を開き越の大徳として知られた泰澄大師が元正天皇の命を受け国家安泰疫病鎮護の為、養老3年(719)当地に来り既に霊山と仰がれていた大峰山(大徳山)に登り17日の参籠、祈願をこめた後、地主神として岡太川の上流に祀られていた紙祖神岡太神社(式内論社)を御前立とし国常立尊、伊弉諾命の二柱の神を主祭神として配し十一面観音を本地佛として、山上山下に社殿堂宇を建て、霊場を開き別当寺として、大徳山大瀧寺を建立社僧を置いて神事を掌らしめる一方護符や写経用紙を確保する為製紙の保護発展に努めるに及んで社運著しく隆興した。
特に鎌倉時代には堂塔伽藍は立ち並び48坊を有するまでに至り社僧6・700を擁する一大勢力を有した(国内神名帳参照)。
その後興国2年(1341)新田勢と共に足利の軍に抗し兵火に罹り一時衰頽したが室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く、同一族の祈願所となるや再び興隆、宗教上においても軍事、経済上においても名実共に最大の勢力をもつに至った。
それにつれて当社の山城である大瀧城は5つの出城も出来難攻不落を誇ったと伝えられる。
かくて年中の神事も70余度、殊に3月の八講、9月の仁王講など春秋の大祭礼には上宮(奥ノ院本宮)より下宮(里宮)までいつも神幸がなされ、競馬、流鏑馬、湯の花の神事など行われ、参拝者は遠近を問わず引きも切らない有様であった。
然し織田信長一揆征伐の際、滝川一益によって大瀧城は落城したので48坊と言われた社域の堂塔はことごとく焼き尽くされ一時は全く衰退したものの、秀吉徳川代々の保護もあり特に松平氏は大いに社殿を再興した。
内でも天保14年(1843)改築された本殿は八棟造に隙き間もなく施された彫刻の精巧さ、又屋根の形態は現在知られている神社社殿のなかでは最も複雑な型をもっており江戸末期の代表的建築である。
更に福井藩主秀康以来歴代の奉賽は欠けることなく崇敬の実を示されている。
明治元年、社号を大瀧児(おおたきちご)神社と改め、同8年12月郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社と改称。
同22年には山上奥の院の末社の内天照大神、春日・八幡社を1社(春日神社)に統合合祀し、水分神を摂社岡太神社に次いで明治41年山上(奥の院)の別山鎮座八坂神社(須佐能男命)を境内社に合祀八照宮と改称。
昭和3年11月13日本社大瀧神社の社歴を案じて県社に列せられた。
昭和59年5月下宮本殿拝殿が重文に指定されたその記念事業と、平成の御大典の記念をかね下宮の本、拝殿屋根の葺替え及び神門、廻廊、奏楽殿の造営を行い平成3年7月完成同4年5月竣工祭を行う。

福井県神社庁



【由緒】

大瀧神社の創建は推古天皇の御代(592〜638年)、御宇大伴連大瀧が勧請したのが始まりと伝えられています。養老3年(719)、平泉寺白山神社(勝山市、当時は平泉寺)を開いた泰澄大師は、この地を訪れ十一面観世音菩薩を本地とする大瀧寺を開山し大瀧神社の別当としました。元正天皇が大病を患った際、大瀧神社で平癒の祈願を行と見事念願成就した事から「日本第一大瀧権現」の勅額を賜り、以来、歴代越後国司や守護、領主などから崇敬庇護の対象となりました。中世に入ると大瀧寺(大瀧神社)は平泉寺(平泉寺白山神社)の末寺となり、白山信仰の拠点の1つとして社運が隆盛し境内には七堂伽藍が建ち並び48坊、社僧700余名を抱える大社となりました。南北朝の動乱や天正年間(1572〜1592年)の織田信長家臣滝川一益の越前侵攻などの兵火で度々衰退の危機が訪れますが、越前守護である朝倉孝景(本拠:一乗谷)や丹羽長秀(織田信長、豊臣秀吉家臣、123万石の大大名)、結城秀康(徳川家康2男、福井藩の藩祖67万石)をはじめとする歴代福井藩(藩庁:福井城)の藩主が庇護し社領の寄進や社殿の造営、改修が行われその都度再興しています。大瀧児神社は古くから神仏習合し江戸時代までは大瀧児権現や小白山大明神などと称してしましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、大瀧児神社に改称、さらに明治8年(1875)に現在の社号である大瀧神社に改称し郷社に列し、昭和3年(1928)には県社に昇格しています。
又、大瀧児神社の境内社である岡太神社は紙の神様である川上御前(岡太大神)を祀る神社で創建年は大瀧神社を上回る雄略天皇の御代(457〜479年)とされ延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されました。特に大滝地区周辺には越前和紙を生業とした集落が点在していた為、古くから信仰されてきました。当初は岡本川上に鎮座していましたが延元2年(1337)の兵火で社殿が焼失すると大瀧神社の相殿に合祀され、その後も全国紙業界の総鎮守として信仰を集めました。大瀧神社の社殿がある境内を下宮というのに対し、背後にある権現山(標高:323m)は山自体が御神体として信仰されていた山で山頂付近にには大瀧神社奥の院や岡太神社本殿、八幡宮本殿が並び立ち上宮と呼ばれています。
現在の大瀧神社社殿は天保14年(1843)に再建されたもので拝殿は入母屋、向拝一唐破造、檜皮葺、本殿は大型一間社流造、檜皮葺、拝殿と本殿が一体化した複合社殿で形容のしようがない独特の屋根形状で建物全体に施されている彫刻も精緻かつ華麗な秀作とされ昭和59年(1984)に国指定重要文化財に指定されています。大瀧神社は現在でも神仏習合の名残を残す神社で神事が行われる一方で式年大祭・(本開帳)や御神忌(中開帳)、法華八講など仏式の行事が行われ木造虚空蔵菩薩像や木造十一面観音坐像といった仏像も所持しています。祭神は大瀧神社:国常立尊、伊弉那諾尊、伊弉那美尊・岡太神社:川上御前(岡太大神)。
大瀧神社・岡太神社の文化財
 ・ 大瀧神社社殿(下宮)−天保14年−複合社殿−国指定重要文化財
 ・ 大瀧神社・岡太神社例祭−福井県指定無形民俗文化財
 ・ 大瀧神社の大スギ−樹高約23m、幹周7.1m−福井県指定天然記念物
 ・ 大瀧神社のゼンマイ桜−樹高約23m、幹周4.8m−福井県指定天然記念物
 ・ 大瀧神社の社叢林−目通2m以上のものが100本−福井県指定天然記念物
 ・ 木造虚空蔵菩薩像−平安時代−越前市指定文化財
 ・ 木造十一面観音坐像−平安時代−越前市指定文化財
 ・ 岡太神社本殿(上宮)−江戸時代初期−越前市指定文化財
 ・ 大瀧神社奥の院(上宮)−江戸時代中期−越前市指定文化財

福井県神社庁



【文化財】

重要文化財(国指定)大滝神社本殿及び拝殿(下宮本拝殿) 天保14年(1843年)建立、昭和59年(1984年)重要文化財に指定。拝殿(入母屋造妻入)と本殿(大型の一間社流造)が一体となった複合社殿。大久保勘左衛門(代表作は曹洞宗本山永平寺の勅使門)棟梁による、複雑な曲面を持つ積層した屋根が特徴。
県指定
天然記念物大滝神社のゼンマイザクラ  昭和39年6月5日指定。ゼンマイのとれる頃に花が満開となる、エドヒガンの大木。
大滝神社の大スギ 昭和39年6月5日指定。通称「おお杉さん」。神社の神木としてしめ縄がかけられ、柵で囲み保護されている。
大滝神社奥の院社叢 昭和61年3月28日指定。権現山(標高326m)山頂付近のブナの原生自然林。
市指定文化財
すべて昭和61年8月12日指定。
大滝神社奥の院本殿
奥の院岡太神社本殿
木造十一面観音坐像 観音堂に安置。
木造獅子頭
木造狛犬(一対)






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