劔神社
つるぎじんじゃゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】劔神社 越前国 敦賀郡鎮座
   【延喜式神名帳】伊部磐座神社 越前国 敦賀郡鎮座
          (末社)織田神社

   【現社名】劔神社
   【住所】福井県丹生郡越前町織田113-1
       北緯35度57分28秒、東経136度3分19秒
   【祭神】素盞嗚大神 (配祀)氣比大神 忍熊王
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧国幣小社
   【由緒】宝亀2年(771)10月16日食封廿戸、田二町(続日本紀)
       宝亀3年(772)奉充二十戸
       天平神護元年(765)9月符十戸
       貞観元年(859)正月17日正四位下(三大実録)

   【関係氏族】忌部(齋部)氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「劔大明神」と称していた
   【公式HP】 劔神社
   【社殿】本殿入母屋造柿葺
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

平地の大社。街中にあり。男忍熊王が賊徒を制圧のおり、窮地に立たれ、素盞鳴命の神勅を得て平定した。その地に創設という。
伊部磐座神社に比定する説がある。


劔神社

越前二の宮 劔神社
上古より座ヶ岳の峰にまつられていた素盞鳴尊大神の御神霊を、第14代仲哀天皇第二皇子忍熊王が現在地に奉斎されたと伝え、後世、忍熊王の御神霊を併祀した。神功皇后摂政の頃、忍熊王が賊徒討伐の時、素盞鳴大神の神助を蒙り討ち平らげ、王は神恩報謝の為、織田の地に社を営み劔の大神と祀られた。
奈良時代より祈願の霊場として朝廷初め国内多くの人達より厚い信仰を受けてきた。現在所蔵する国宝の梵鐘は奈良時代末期第四十九代光仁天皇御奉納と伝えている。中世以降武門では、平家、斯波、朝倉、織田、柴田、徳川、松平の諸将の崇敬厚く、ことに織田信長は氏神と崇め、格別の信仰と共に、神領を寄進し領民を安堵し、神社を保護した。江戸時代の末には伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進を初め厚い御尊崇をうけて今日に至っている。越前の国二宮として、一宮の気比神宮とともに福井県民の信仰厚い神社である。
県指定文化財 【劔神社本殿】時代 江戸時代
この神社は、仲哀天皇の第二皇子の忍熊王が、この地の賊を追討したときに素戔鳴尊の御霊代の劔を祀ったのが劔神杜のおこりとされている。
本殿は、長寛2年(1164)頃に建立されたといわれているが、焼失し、宝徳3年(1451)頃に再建されたと伝えられ、今日までには、天正二年(一五七四)の一向一揆、慶長三年(1598)の大閤検知騒動、自然災害などに遭遇し、社殿の一部解体修理や屋根葺替えを重ねてきた。現在の本殿は、寛永4年(1627)に再々建されたものである。
この本殿は、高さ1mほどの基壇の上に建てられており、亀腹は青色切石を使っている。屋根は入母屋造り、柿葺で、千鳥破風が主棟と同じ高さで前方に突出し、さらにその直下に唐破風をもつ向拝が設けられている。千鳥破風や唐破風をもつ屋根の流れは見事であり、「織田造り」と称され、江戸初期の秀麗な姿をとどめている。
県指定文化財【織田神社】時代 室町時代
建築様式から推して、後世の改修による部分が多い。しかし、全体として創建当初の室町様式がよく残されている。
基壇、亀腹から上部は後世修理の際、根太をせり上げて雪害を防いでいる。腐朽の根太、通し柱を継矧して構造自体を高くしたようである。台輪、貫、組物等を丸柱が支え、巧みに均衡よろしきを得ている。
流麗な屋根の匂配、二重垂木の配列、蟇股などの細部構造にまで優雅な風情を残している。流れ造りの典型的な遺構である。
【座ケ岳の社】
劔神社の古伝によれば、第7代孝霊天皇の御代に織田郷の住民が、伊部郷の座ヶ岳の峰に素盞鳴尊の御神霊をお祀りしたということになっている。
その後、第11代垂仁天皇の御代に伊部の臣という人が、鳥取川上宮という社で作られた御劔をもって素盞鳴尊の御神体として祀り、劔大神と称することになったと伝えられている。
神功皇后の御代に忍熊王(仲哀天皇第二皇子)は、近江の国から越前の国に来られ、越前海岸やこのあたり一帯に勢力を持つ賊徒を征伐された。戦いは非常に苦戦におちいったが、座ケ岳に祀られている劔大神より御劔を授けられ、その御神助によって遂に賊徒を平定することができた。
住民安定の地を定めることができたので、忍熊王は靱大明神の御神徳に感謝し、座ヶ岳から劔大神を織田の現在地に移し祀られたと伝えられている。
王がなくなられてから後、神功皇后摂政13年誉田別尊は、武内宿称を織田に遣わされ、忍熊王を劔大神に合祀せしめられたと劔神杜社記に記されている。
(織田町史より)
劔神社の宝物
国宝 時代 奈良時代
【梵鐘】
総高109.9cm、身高88.5cm、口径73.9cm、撞座中心高31.5cm、鋳銅、龍頭は宝珠、火炎を欠損、龍は厚みのある力強い構成で、笠形は中央に盛り上がり、二条の圏線で内外二区に分つ。乳は簡素で三段五列、上・下帯は無文。撞座は、その平面を龍頭側面平行にとる古式な形成で、位置は高い。作技は放胆である。銘文は草の間一区に三行に「劔御子寺鐘神護景雲四(七七〇)年九月十一日」と陽鋳しており、駒爪は三条の線のみでかわりとしている。口径に比して鋳身丈低く、すべてに古式を示している。
奈良時代の鐘で紀年銘を有するものは、妙心寺鐘、興福寺鐘と、この三口のみである。
劔御子寺鐘
神護景雲4年9月11日
重要文化財 時代 鎌倉時代中期
【絹本著色釈迦八相涅槃図】
縦231cm、横248cm。
仏陀がクシナガラの沙羅双樹林で入滅する姿(涅槃相)を描いているのは諸本と変わらないが、左右に縁を設けて仏伝図を添えている。右縁の下から上へ托胎・入胎・誕生・四門遊出、左縁の下から上へ城道・初法輪の七相を描き・八相最後の入涅槃をクローズアップした表現形式をとっている。
本図は、描線に肥痩のある筆線を使いながら、緻密に描かれており、仏・菩薩、弟子、王候らの表情をよくとらえ、縁辺の山岳描写も古様を伝え、鎌倉中葉に遡る作と思われる。
なお、本図には、涅槃講式断簡一巻が付属していて涅槃会の際に使われたものと思われる。
織田信長と劔神社。
わたしたちのまち、「織田(おた)」は、織田信長一族の祖先のふるさとであります。織田氏の祖は、越前織田の荘の荘官として、また越前二ノ宮劔神社の神官として代々奉仕してきた由緒ある家柄であります。
室町時代の応永年間に、神官の子に「常昌(つねまさ)」という立派な人物がおりましたが、時の越前の守護斯波(しば)氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣されました。
苗字は故郷の地名をとって織田氏を名乗るようになりました。
代々、織田氏は尾張で勢力を伸ばし、守護代にまで登りましたが、信長の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
信長は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神様として深く尊崇し、武運を祈るとともに、多くの神領を寄進し、社殿を造立するなど、劔神社の保護と住民の治安に尽くしたことは他に類例を見ないところであります。
天正10年、信長は本能寺の変であえない生涯を終え、天下一統の夢は消えましたが、織田の住民は信長の功績と遺徳を偲び、劔神社境内の中に小社を建て、「みたま」を祀りました、名を小松建勲(たていさお)神社といいます。
因みに、織田氏の家紋は「織田木瓜紋」(五つ木瓜紋)でありますが、劔神社の神紋も昔からおなじ神紋でありますので、深いつながりがあることを示しています。
【柴由勝家諸役免許状】
天正3年(1575)8月、信長は越前の一向一揆の暴徒を平定すると、柴田勝家に越前の大部分を統治することを委ねた。9月に勝家は織田寺と同門前に「定め書」を出し、劔大明神宮寺と住民の保護につとめた。11月には、織田寺社中に書状を下し、織田劔大明神寺社並に門前に先記の通り諸役を免除することを認めた。
また、劔大明神は、殿様〔織田信長)の御氏神であるから、いささかも相違があってはならないことを命じている。
このように信長は、家臣に対しても劔大明神は織田氏の先祖からの氏神であることを知らしめ、大事にするように命令していたことがわかる。
【織田信長安堵状】
天正元年(1573)8月に朝倉氏が亡び、織田信長は越前を掌握すると、10月には先祖の地、織田劔大明神社中に対して安堵状を下した。即ち、劔大明神の神領、同末社領、坊領、寺社の土地については旧来どおり領有することが認められた。このほかに臨時の課役を禁じ、また、争いごとの裁きは寺杜で計り行うことなど、末代まで相違ないように命じた。
この安堵状の信長の署名の裏面に『天下布武』の黒印が押されている。
【藤原信昌・将広置文】
室町時代の初め、明徳4年(1393)織田庄の庄官と思われる藤原信昌・将広父子が心を一つにして、劔大明神の社殿等を復興する誓いをたて、神前に奉納した置文である。牛玉宝印は誓旨をたてた置文に添付したものであろう。
筆跡は一字一字丁寧に力強い文字で書かれており、誠実さの現れたすばらしい筆跡である。また、牛玉宝印の字は筆太にどっしりと、しかも雄潭な筆跡でみごとな作である。
またこの文章は、劔神社文書中もっとも古いもので、約六百年の古い歴史を経ている。
織田町年中行事
初まいり
正月三ヶ日に初詣でする人達の数は十万余人に及び、福井県内神社のトップクラスである。特に劔神社の場合、ご祈祷を受ける人が多く、社頭は大変な賑わいとなる。
近年当社のご由緒等から難関突破、勝運隆昌、合格成就、厄除開運、交通安全等の守護神と仰がれ、県外からの初詣での参拝客は年毎に増えている。
左義長
以前は2月15日に行っていたが、現在では2月11日に行っている。大きく飾り立てた左義長の恵方に歳徳神をまつり、門松や、シメ飾り、古神札、古守等を積み上げ、真木に青竹を寄せて立て小中学生の書き初めを吊し、さらに五色のシデをつけ、燃え盛る炎に火の神の守護を感謝し、日常の守護をお祈りする。
夏越しの大はらい
(輪くぐり)
6月30日の夕方、境内の石鳥居に設けられた茅の輪を左右左と三回廻り、祭場に向かい祭典を行う、私達が知らず知らずの内に犯した罪や穢をはらい清め、本来の清浄無垢の清々しい心身にかえり、神様のいっそうのご守護のもと健康と繁栄をお祈りする行事。
太鼓フェスティバル
O・TA・I・KO響(ひびけ〕
"O・TA・I・KO響'と題した、太鼓の祭りで、西日本一の大太鼓『明神』をメインに、町内の『だいずり』や『明神ばやし』をはじめ、全国から太鼓集団やプロの演奏家が一堂に集まり、迫力ある、すばらしい太鼓の演奏を繰り広げます。
織田まつり
毎年10月に町中をあげて、威勢よく行われます。みこしをはじめ、山車、音楽隊、婦人の手踊りなどが通りをパレード。メインイベントともいえる「だいずり」は、迫力ある太鼓の競演で、祭りの醍醐味を堪能できます。

由緒書



劔神社由緒略記

・ 御祭神 素盞嗚大神 (すさのおのおおかみ)
・ 氣比大神 (けひのおおかみ)
・ 忍熊王 (おしくまのみこ)
主な祭儀
  例大祭 10月9日10日
・新年特別大祈願 元旦より立春まで毎日奉修
・ 歳旦祭 1月1日
・ 春季大祭 4月29日
・ 夏越大祓 6月30日
・ 新嘗祭 12月1日
・ 左義長 2月11日
・ 境内 壱万壱千八百余坪
・ 御神紋 五木瓜 (別名織田瓜)
社伝によれば座ヶ岳の峰に祀られていた素盞鳴大神の御神霊を、第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王が、この地に斎き祀られたと伝えている。即ち、神功皇后摂政の頃、忍熊王が当地方の賊徒討伐にあたり、素盞鳴大神の御神助を戴き無事平定できたことに対し、神恩報謝のため織田のこの地に社を営み劔大神と称え、その後、王が薨去されるや里人はその徳を慕い、主神素盞嗚大神に配し祀った。
奈良時代には祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から篤い信仰を受け、殊に所蔵する国宝の神鐘は第四十九代光仁天皇が白壁王と申されていた頃、弓削道鏡の野望を砕くために当社に大願が掛けられ、成就の御礼として御奉納戴いたといわれている。また、武門にあっては平重盛を始め朝倉・織田・徳川・松平の諸将の尊崇が篤く、特に織田信長は氏神として崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護した。
江戸時代の末には伏見宮の御祈願所と定められ、拝殿は伏見宮の御勧進によって造営された建物で、明治三十四年には県社に、昭和三年には國弊小社に昇格した。
御神徳
遠く奈良の昔から極めてご霊験あらたかな神と仰がれ、すべての生業の守護神、あらゆるものの生成化育・発展を導き、一切の厄事災難を祓い清める尊い神と崇められ、殊に「劔大神」の御神名に示されている如く、御宝劔の霊威によって襲い来る災禍を一刀両断に打ち祓い、智恵と勇気により正しい判断のもと、決断と実行ができる大きな「力」を戴ける大神様として信仰されています。私共はこの大神様の救いの手を信じ、祈りを捧げるならば、そのご霊験は必ず現れ、正しい御加護のあることを信じます。

社頭掲示板



劔神社

◆ 神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇第二皇子、忍熊王が賊徒討伐の際、素盞鳴大紳の御神助を得て平定されたので、王がその神恩報謝のため織田の地に社を営み、それまで座ケ岳(当社、北に位置)の峰に祀られていた素盞鳴大榊の御紳霊を“劔大明神”と仰ぎ奉られたのが当社のはじまりと、社記は伝えています。
奈良時代より祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受け、現在所蔵する国宝の梵鐘は第四十九代光仁天皇による御奉納といわれています。中世以降武門の崇敬も厚く、特に織田信長は氏紳の社と崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護しました。
江戸時代後期には伏見宮家の祈願所と定められ、拝殿の御寄進をはじめ厚いご 尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として、一の宮の気比紳宮と共に、福井県民はもとより県外の方々の信仰も厚い神社です。
◆ 劔神社の鎮座地である織田は、織田信長の祖先の故郷です。
織田氏の祖は越前織田の荘官として、また越前二の宮の神官として代々、社に仕えてきた由緒ある家柄でした。
応永年間(1394〜1427)、神官の子「常昌」は、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田氏を名乗るようになりました。
織田氏は次第に尾張で勢力を伸ばし守護代にまで昇りつめ、信長の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
 信長は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊敬し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と住民の治安に尽くしています。

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