【由緒】 創立の年月不詳。 社伝の一説に、仲哀天皇の第2皇子忍熊王は、淡海国(滋賀県)瀬田の渡りより越の道の口である角鹿(敦賀)においでになった。 その後気比の地より軍船で北上し宇見浦(越前町)に着かれた。 この頃丹生山地には悪賊がはびこり住民を悩まし続けていたので、皇子はこれを憐み賊徒討伐に向かわれた。 賊徒は玉川の岩窟にたてこもり激しく抵抗し従わなかった。 海蝕崖の上から射下す矢玉に皇子の軍は苦戦を重ねたが、ようやく丹生山地の山中まで追いつめた。 しかし、なお、賊徒の反撃は激しさを増し、かえって皇子の身辺も危くなって来た。 辛うじて、老樹の朽穴に憩われたが、疲労のあまり仮眠された夢枕に「吾れ今、汝に霊剱を授けん、是を斎き奉らば、直ちに平ぐ事を得ん。吾は素盞嗚尊なり」と告げられた。 夢さめて、山中を行かれると伊部臣と出会われ、伊部臣から皇子に神剱を奉った。 皇子は、力を得られて、賊徒を討伐された。 丹生の地に平和が戻り安住の地となった。 皇子は、社殿を建て、神剱を素盞嗚尊の御霊代として鎮め奉り祭祀した。 その後、皇子は、郷民に産業を教え善政をされたが年若くして没せられた。 郷民はその恩沢に感佩しつゝ深く悲しみ御租の神として主神に配し祀り素盞嗚尊・忍熊王、2柱1社の剱大明神と崇めた。 また皇子の父神を織田神社に祀り気比大神と仰いだ。 神功皇后摂政13年(400年頃)織田の地に遷座、その後間もない頃譽田別命(応神天皇)が角鹿に行啓の際使臣を遣わして奉賽。 光仁天皇は神護景雲4年(770)越前守藤原雄田麿を遣わし銅鐘1口(現国宝)と神馬を奉献し、宝亀2年(771)神階従四位下勲六等に叙せられた。 寛平9年(897)12月正二位に叙せられる。 建保6年(1218)神領の地織田荘の四至を定め、応永2年(1395)神領地の臨時課役の検断を停止。 文政10年(1827)10月伏見宮の御祈願所として諸調度を寄進し天保7年(1836)まで代参があった。 また武門にあっては、源平兵乱の頃は社頭の荒廃が激しかったので平重盛は神領3,808町を寄附し社殿を造営し復興した。 末社の小松社には重盛公が祀ってある。 明徳4年(1393)織田荘の地頭藤原信昌は本家妙法院宮の令旨を奉じて社殿の興隆を誓い、斯波・朝倉の諸將の尊崇も深く、特に天正の始め織田信長が越前を平定した後、織田明神と深い機縁から社領の安堵と禁制を令達し社殿を造営した。 柴田勝家の書状に「当社の儀は殿様(織田信長)御氏神の儀……」とある。 天正5年(1577)の神領は1,489石3斗であった。 国守松平秀康を始め尊崇があつく明治維新を迎えた。 明治7年11月郷社。 同34年11月県社、昭和3年御大典の秋11月10日越前国二ノ宮として国幣小社に列せられた。 福井県神社庁 |
【文化財】 国宝 梵鐘 - 「劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日」の銘のある梵鐘(神護景雲4年は770年)。奈良時代の在銘鐘として貴重なものである。道鏡が失脚した際に神馬とともに奉納されたとの伝承がある。 重要文化財 絹本著色八相涅槃図(附:紙本墨書涅槃講式断簡)- 鎌倉時代中期の作。奈良国立博物館に寄託。 |