剱神社本殿向かって右にあり。古来八幡宮とされる。 建武の中興が瓦解し、新田義貞が当国で敗死するに及んで、織田庄は完全に足利方の占領するところとなつた。確証はないが、この時神社は破壊され神領は没収されたものと思われる。 織田信長の織田氏は、当社祠官の出とされる。 |
劔神社 ◆ 神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇第二皇子、忍熊王が賊徒討伐の際、素盞鳴大紳の御神助を得て平定されたので、王がその神恩報謝のため織田の地に社を営み、それまで座ケ岳(当社、北に位置)の峰に祀られていた素盞鳴大榊の御紳霊を“劔大明神”と仰ぎ奉られたのが当社のはじまりと、社記は伝えています。 奈良時代より祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受け、現在所蔵する国宝の梵鐘は第四十九代光仁天皇による御奉納といわれています。中世以降武門の崇敬も厚く、特に織田信長は氏紳の社と崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護しました。 江戸時代後期には伏見宮家の祈願所と定められ、拝殿の御寄進をはじめ厚いご 尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として、一の宮の気比紳宮と共に、福井県民はもとより県外の方々の信仰も厚い神社です。 ◆ 劔神社の鎮座地である織田は、織田信長の祖先の故郷です。 織田氏の祖は越前織田の荘官として、また越前二の宮の神官として代々、社に仕えてきた由緒ある家柄でした。 応永年間(1394〜1427)、神官の子「常昌」は、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田氏を名乗るようになりました。 織田氏は次第に尾張で勢力を伸ばし守護代にまで昇りつめ、信長の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。 信長は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊敬し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と住民の治安に尽くしています。 公式HP |
織田神社 奇女有リ、常々織機ヲ営ミシカ途二身ヲカクス、其織機ノ功ヲ以テ後二大曼陀羅トナシ有、之ヨリ其奇女ノ地ナルカ故二、保食命ヲ齋テ以テ織田神社ト称シ候也、又鏡ヲ残シ置キシ地ヲ以テ鏡ノ宮社ト称ス 社伝 |