雄山神社 大宮(前立社壇)
おやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】雄山神社 越中国 新川郡鎮座
          (峯本社)雄山神社(峯本社)
          (祈願殿)雄山神社 中宮(祈願殿)

   【現社名】雄山神社 大宮(前立社壇)
   【住所】富山県中新川郡立山町岩峅寺1
       北緯36度36分28秒、東経137度18分51秒
   【祭神】伊弉諾尊 天手力男尊
   【例祭】4月8日 春季例大祭 11月3日 秋季例大祭
   【社格】旧国幣小社 越中国一宮
   【由緒】大宝元年(701)創祀
       貞観5年(863)9月25日正五位上「三代実録」
       寛平元年(889)従四位下「日本紀略」
       建久年間(1190−99)源頼朝の造営
       承久2年(1220)造営
       応仁元年(1467)造営
       明治6年県社
       明治40年3月神饌幣帛料供進神社指定
       昭和15年国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来この地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「立山権現」と称していた
   【公式HP】 雄山神社前立社壇
   【社殿】本殿流造檜皮葺  国指定の重要文化財
       拝殿・表神門・裏神門・透塀・手水舎

   【境内社】稲荷社・刀尾社・八幡社
   【境内図】 境内図

立山山頂に峰本社、芦峅寺に中宮(祈願殿)、岩峅寺に大宮(前立社壇)三カ所に分れ建ち、この三社で一神社を構成している。
中古深く仏教と習合しながらも、山頂も山麓もなお神社的風貌、乃至神祇信仰を持ち伝えていた。
盛時には岩弁は二十四坊であつたが、明治維新神仏分離によつて大打撃を蒙り、仏堂は破却され、立山権現の名は廃され、雄山神社の古称に復した。


由緒

雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。
当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観5年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



雄山神社前立社壇

古くは、立山寺と称した。江戸時代に岩倉(峅)寺と改称し、明治期には雄山神社遥拝所とも呼ばれた。
 本殿は大宝元年(701年)の創建にかかり、建久2年に源頼朝が再建し、明応元年足利義稙によって修復されたとしている。富山城主佐々成政の庇護を受け、加賀藩前田家の所領後は、藩主一族の武運長久、息災延命、五穀豊穣などを祈る祈願所として、厚く保護された。
 本殿は、和様の斗供組で、五間社流れ造りで、一間大面とりの向拝を付けて高い階段を覆い下は浜床の様式をとり、総体は素木造りである。
 昇り階段下の向拝柱の角柱に大斗をのせ、その上に虹梁を懸げ、木鼻は象形で芭蕉葉図案を手挟によって屋根に取り付けている。
 また本殿は、大丸柱上に大斗をのせ、柱間には中央に神紋、双方に日、月、その他の図案彫刻を施こした蟇股をはめ込んでいる。
 破風の拝下には「いの目懸魚」を懸げ、屋根はもと柿葺であったが現在檜皮葺である。
 とくに蟇股彫刻や向拝の手挟、木鼻などは、室町中期の様式を示しているといわれる。明治39年4月14日付けで特別保護建造物に指定され、文化財保護法の施行によって、国指定の重要文化財となる。
昭和56年
立山町 立山町観光協会

社頭掲示板



雄山神社前立社壇

御由緒
御祭神
伊邪那岐之神
天之手力男神
伊邪那岐之神ハ天地開闢ノ初祖神ノ詔ヲ奉シテ修理固成ノ天業ニ就カセ給ヒ皇土郡品ノ祖現世司命ノ神ニ坐シマス
天之手力男神ハ皇國肇造ニ當リ天ノ岩戸ヲ開キテ 皇祖ノ御稜威ヲ光被セシメ給ヒ天業翼賛ニ神功ヲ顕シ給ヘル神ニ坐シマス
抑モ本社ノ鎮座ハ悠遠ニシテ詳カナラスト雖モ社傳ニ依レハ文武天皇ノ御宇大寶元年越中守佐伯有頼神教ヲ蒙リテ立山ヲ開キ社殿ヲ創立セリト云ヒ傳フ
神階ハ清和天皇貞観5年9月正五位上ヲ宇喜天皇寛平元年8月従四位下ヲ授ケラレ給ヒ延喜ノ舊社ニシテ世々領主武将ノ尊崇篤ク多クノ社領社僧ヲ有シ規模宏大越中随一ノ大社タリ又日本三霊山ノ一トシテ崇敬者全國ニ洽ク古来越中ニテハ男子十五歳ニシテ立山ニ登拝セサル者ハ男子ノ數ニ入ラストノ傳統的信仰有リ夏期登拝スルヲ例トセリ
畏クモ 聖上陛下大正14年新年ノ御歌ニ
立山の空にそびゆるををしさに
ならへとぞ思ふ御代の姿も
ト詠マセ給ヒテヨリ神威彌々四表ニ耀キ給フ
明治6年縣社ニ昭和15年11月國幣小社ニ列セラレ給ヘリ
當社神殿ハ建久年中源頼朝ノ創建ニカカリ其後足利義稙佐々成政造営セルモノニシテ明治39年4月國寶建造物ニ指定サラル
雄山神社前立社壇

社頭掲示板



雄山神社大宮(前立社壇)

御祭神
伊邪那岐神
(皇土群品の祖神家業繁栄・縁結)
天手力雄神 (破邪顕正の守神 諸難防災・開運)
御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿祢有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもある。
清和天皇貞観5年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。
また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義植、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。
明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、園幣小社に列せられだ時は本社であった。
御本殿 国指定重要文化財
当神社の御本殿は、明治39年に国指定重要文化財に指定され、大正12年に国費の補助を得て解体修理された。間口五間の流れ造、北陸最大の本殿である。
立山曼茶羅図
この立山曼茶羅は、開山縁起の他に様々な内容の絵が複雑に描かれている。前立社壇のある岩崎には数多くの宿坊があり、坊の僧は、夏場は立山登拝の人々の世話をし、秋の終わりから翌年春までは諸国の壇那場に赴き、立山曼茶羅を掲げて絵解きをし、布教活動をしたのである。
立山頂上峯本社
立山連峰の主峰雄山(3003m)に鎮座するv 峰本社は大宝元年(701年)に佐伯有頼少年が白鷹に導かれ開山したと伝えられている。夏山の頂上は各地よりハイキング旁々、また、ご来迎を拝むために登山する人達で賑わう。旧社殿は万延元年に建立され、平成8年に226年ぶりに造営され新社殿となつた。立山頂上は奥宮として崇敬を集めている。
深湯の釜
この釜は弘化2年(1845年)3月、加賀の御殿様、前田斉泰公から寄進された湯立の釜で、高岡の金森彦兵衛の製作によるものである。
昔はお湯をわかし、お詣りをした人々が身にふりかけて、身の罪・穢を祓い、神様に登拝の無事を願ったものであつた。
収蔵宝物
一、後光明天皇御農筆   一軸
明和7年町尻正三位奉納
一、中御門天皇御末広   一握
明和7年町尻三位奉納
一、桜町天皇御冠    一頭
明和7年町尻三位奉納
一、石の狛犬    一対
元和年間前田利長公夫人寄進
一、御鏡一面
一、法華経八巻
一、絵図三五点
一、古文書四八一点

由緒書



雄山神社前立社壇

当社(前立社壇)は山裾に位置し、3社の中で一番平野に近く、立山の前に立つお社であることから前立社壇と呼ばれております。
社伝によれば、立山は文武天皇の大宝元年(701年)に景行天皇の後裔越中国司佐伯宿祢有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営した霊山であります。古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されてきました。
山頂の峰本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社壇を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられています。
当社は皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあります。神階は清和天皇貞観5年(863年)正五位上に叙せられ、宇多天皇寛平元年(889年)従四位下に昇叙せられたことが、日本三代実録及び日本紀略に見られます。
また、越中一宮と称されたこともあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間(1190〜1198年)に源頼朝が本殿を再建し、明応元年(1492年)に室町将軍足利義稙、天正11年(1583年)には佐々成政が本殿を造営・改修しております。その後は加賀藩前田家の手厚い保護を受け加賀藩の祈願所となり、明治6年(1873年)には県社、昭和15年(1940年)に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建物が整備され、国幣小社に列せられたときは本社でありました。

公式HP



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