雄山神社 中宮(祈願殿)
おやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】雄山神社 越中国 新川郡鎮座
   【延喜式神名帳】布勢神社 越中国 新川郡鎮座 (若宮社相殿)
          (峯本社)雄山神社(峯本社)
          (前立社壇)雄山神社 大宮(前立社壇)

   【現社名】雄山神社 中宮(祈願殿)
   【住所】富山県中新川郡立山町芦峅寺
       北緯36度34分59秒、東経137度23分34秒
   【祭神】天手力雄命 伊弉那岐命 (配祀)文武天皇 佐伯宿禰有若 稻背入彦命
   【例祭】7月25日 立山権現祭
   【社格】旧国幣小社 越中国一宮
   【由緒】大宝元年(701)創祀
       貞観5年(863)9月25日正五位上「三代実録」
       寛平元年(889)従四位下「日本紀略」
       明応元年足利義直造営
       天正11年佐々成政本殿の改修
       天正13年8月豊臣秀吉により焼失
       明治6年県社
       明治40年3月神饌幣帛料供進神社指定
       昭和15年国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来この地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「立山権現」と称していた
   【公式HP】 雄山神社
   【社殿】
       拝殿・手水含・開山堂・社務所

   【境内社】立山開山堂・宝堂社・神明社・稲荷社・神秘社・志鷹社・庚申社・琴平社
   【境内図】 境内図

立山山頂に峰本社、芦峅寺に中宮(祈願殿)、岩峅寺に大宮(前立社壇)三カ所に分れ建ち、この三社で一神社を構成している。
中古深く仏教と習合しながらも、山頂も山麓もなお神社的風貌、乃至神祇信仰を持ち伝えていた。
盛時には芦弁は三十三坊五社人であつたが、明治維新神仏分離によつて大打撃を蒙り、仏堂は破却され、立山権現の名は廃され、雄山神社の古称に復した。


由緒

雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。
当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観5年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



雄山神社

日本三霊山 霊峰立山 延喜式内社・旧国幣小社 雄山神社
立山頂上峰本社 芦峅寺中宮祈願殿 岩峅寺前立社壇
海抜一万尺(3003m)北アルプス立山の主峰雄山の岩頭に鎮座。夏山シーズンには多くの登拝者で賑わう。 立山信仰の里立山山麓芦峅寺に鎮座。樹齢約500年の杉木立の中は神気に満ち厳粛な気配が漂う。立山博物館が隣接。
御由緒
 文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔(こうえい)越中国司佐伯宿袮有若卿の嫡男有頼公が白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿の岩窟に於いて立山両権現より「我、濁世の衆生を救わんがため此の山に現わる。あるいは鷹となり、或いは熊となり汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」と言う霊示を受けて開山されたのが霊峰立山である。
 峰本社は北アルプス立山連峰の中心、立山峰の雄山山頂(3003m)に鎮座し、古来富士山、白山とともに日本三霊山として全国各地から信仰されてきた。
 しかし、屹立した巌上にあるこの峰本社には冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓芦峅、岩峅に社殿を建て年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。
 この立山を神山と仰ぐ立山中宮芦峅の地に、立山の雄山神(立山大宮)、剱岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ、壮大なる神社仏閣が建立された。有頼公自ら立山座主としてこの芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられた。
 以来、神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、清和天皇貞観5年、宇多天皇寛平元年に叙位せられ、平安期の後白河法王御撰の梁塵秘抄には「験仏の尊きは先ず東の立山」と、全国著名の霊場の冒頭に書かれている。また、「越中国一宮」と鎌倉時代の安居院神道集に誌され、同じく鎌倉時代の拾芥抄には、「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されているように、一般民衆の信仰も大変篤かった。
 鎌倉幕府足利歴代将軍が文治元年諸堂を造営して深く崇敬し、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、殊のほか保護造営されてきた霊場も天正13年8月富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により、当芦峅寺がことごとく焼き払われ、以前の諸堂をほとんど失った。
「東はウバダウつるぎの山の麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら5名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、続群書類抄にも「至リ越後界ニ立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。この祖母堂(うばどう)とは芦峅寺のことである。
 加賀藩主前田利家公領主となり復興造営に保護を加え、再び復興盛賑を極めるに至りしも、更に明治維新の廃仏棄釈、神仏判然令により一大改新を加えられたため中宮寺姆堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し廃墟と化してしまった。只根本中宮の現境内のみが残り雄山神社として明治6年県社となり昭和15年国幣小社に列せられた。
 今では、これらの面影を風土記の丘、立山博物館にわずかに再現されているのみである。
霊峰立山山麓岩峅寺鎮座。御本殿は五間社流れ造りで室町中期の様式を示し現在北陸最大である。明治39年4月に国指定の重要文化財となる。

由緒書



雄山神社

由緒 西本殿 立山大宮 伊弉那岐命
東本殿 立山若宮 天手力雄命
別宮 立山開山堂 佐伯有頼公
 當神社は日本三霊山立山を神山と仰ぐ雄山神社中宮にして、延喜式内国幣小社であり鎌倉時代神道集によれば越中国一の宮と称せらる。鎌倉幕府室町幕府金沢藩主の特別崇敬保護を享け、中宮寺塔中の衆徒社人三十八戸軒を列ねて奉仕し全国に立山の霊験を布教せり。
総拝殿を祈願殿と称し境内二万余坪あり樹林は富山県天然記念物に指定せらる。
 境内に於て草木を採り、殺生を行い、無禮を為すことを固く禁制す。

立山若宮
御祭神 刀尾天神(天手力雄神)
稲背入彦命
佐伯有頼命
 古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神二十一末社の総本宮として厚く崇敬されてまいり、殊に足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将江戸時代清里武門より敬信の誠を捧げられ、大願成就必勝不敗災難除けの神として信仰される。
 また霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝するを例とした。

立山大宮
御祭神 立山権現伊邪那岐大神
 相殿 第42代文武天皇
佐伯宿祢有若公
 立山権現麓芦峅中宮の末社にして、堂と竝び立山信仰の中心社堂で本殿。大拝殿と偉容を誇っていたが明治初年 山中よりの落石の災害に合い両殿共に破壊される。

祈願殿
 明治維新まで芦峅大講堂と称したが、改新後祈願殿と称し、諸祭儀、御神楽等と修する所なり。
 本殿には、雄山の大神を始め、立山々中三十六社の神々を合祀す。

社頭掲示板



雄山神社

今から約1300年前、文武天皇の大宝元年(西暦701年)第12代景行天皇の後裔、越中の国司佐伯宿禰有若卿の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿岩窟において「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受け、文武天皇の勅命により開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅寺に立山雄山神(立山大宮)、剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ壮大なる神社仏閣が建立され、岩峅寺にも社殿が建てられて、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したのである。有頼公自らは出家して慈興と号し、立山座主として芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられたのである。
 以来神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇・後醍醐天皇の勅願所となり、また清和天皇の貞観5年・宇多天皇の寛平元年に叙位せられた。
 平安期の後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』には「験仏の尊きは先づ東の立山」と全国著名の霊場の冒頭に記され、また鎌倉時代の安居院編纂の『神道集』に「越中国一宮」、洞院公賢が著した『拾芥抄』に「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されており、広く信仰を集めていたことが窺われる。
 鎌倉幕府が文治元年に諸堂を造営、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、殊のほか深く崇敬し保護造営されてきた霊場も、天正13年8月、富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により芦峅寺が悉く焼き払われ、以前の諸堂を殆ど失うこととなった。このことについては「東は立山ウバダウつるぎの山の麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら五名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、『続群書類従』にも「至リ越後界ニ、立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。祖母堂(うばどう)とは芦峅寺のことである。
 前田利家公が加賀藩主となり復興造営に保護を加え、再び盛賑を極めたものの、明治維新の廃仏毀釈・神仏判然令により一大改新を加えられたため、布橋灌頂において重要な役割を果たした中宮寺ウバ堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し芦峅寺は廃墟と化してしまった。ただ、根本中宮の境内とその講堂が雄山神社中宮祈願殿として残り、明治6年に県社、昭和15年に国幣小社に列せられた。

公式HP



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