海抜一万尺(3003m)北アルプス立山の主峰雄山の岩頭に鎮座。富士、白山と並び日本三霊山の一つ。修験道の霊場である。 頂上の社殿は加賀藩が造営するしきたりであった。 越中男子は成人の通過儀礼として立山に登拝する慣習で、山麓岩弁の大宮・芦弁の中宮を経て頂上の峯本社に参拝した。 本殿は三間に仕切り、中央は宝藏にあて、向つて右に手力雄神、左に伊邪那岐神を祀るが、昔は左右逆でなかつたかと言われている。 |
由緒 雄山神社御由緒 社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。 古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観5年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
雄山神社 立山頂上 雄山神社由緒 御祭神 伊邪那岐神(英智創造・家運繁栄)天手力雄神(心身安全・災難消滅) 御社格 日本三霊山 延喜式内国幣小社 御社殿 現在のものは平成8年御再建 大宝元年(西暦701年)越中国司佐伯宿禰有若の嫡男有頼公16歳のとき白鷹黒熊の導きにより初めて上山し、玉殿岩屋に於て天示を受け、更に文武天皇の勅命により立山全山を賜与されて開山したりと伝う。以来立山は阿弥陀如来と不動明王尊を併せ祀り、神仏習合・山岳信仰の大道場として山麓の岩弁寺・芦弁寺両所に壮大なる堂塔を建立し、六十二院の神官僧坊軒を列ねて奉仕せり。 元明天皇・醍醐天皇の勅願を蒙り鎌倉幕府・室町幕府・富山城主佐々成政・金沢藩主前田歴世篤く崇敬保護せり。立山は古来、峰に九品の浄土あり、渓に136地獄の形相を現わすと称され、今や国立公園の特別区域として雄大神厳なる大自然と共に神威を天下に誇るものなり。 社頭掲示板 |