大物忌神は国家辺境の守護神であった。その位置する所が古代国家の北の境界上であつたためである。この状態は十世紀中ごろまで続く。
山頂の大物忌神社は、敷地の前に鳥居が立ち、石積み中央部に境内入口。 階段を登ると社号標が立っている。 |
由緒 欽明天皇25年(1400余年前)鳥海山上に鎮座され貞観4年官社に列し国家の祀典に預り延喜の制には吹浦に鎮座し給ふ月山神社と共に名神大社に班し後出羽国一宮としてその撰に預り朝野の尊信を享けてきた。 特に歴代天皇の崇敬篤く八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修等代々の武将にも篤く崇敬されてきた。 中世神仏混合以来鳥海山大権現として社僧の奉仕するところになったが、明治3年神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり同4年国幣中社に定められた。 昭和30年鳥海山大物忌神社と改称鳥海山の御本殿は伊勢と同じく20年毎に建て替える式年造営の制になっている。現在の御本殿は昭和52年に造営のものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鳥海山大物忌神社 社伝によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本社は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二カ所に鎮座する。 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。 中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年5月吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同13年(1880)七月に山頂本社を国幣中社に改め、同14年に吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。昭和30年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年に造営された。 平成20年には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定された。 社頭掲示板 |