江戸期、各修験の間で教義上の争い、境界争いが頻発。最終的に蕨岡が勝利を納めた。鳥海山上の本社を「出羽一之宮大物忌神社」と称し、当社を「一之宮鳥海山表口別当」と称した。 明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年(1880年)8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨の通達が出され、明治14年に実施されたため、両者の争いは収束した。 本殿はもとは境内東の細く長く急な石段を上がった岡の頂きにあった。昭和28年(1953)に、参拝の利便性向上のために、現在地に移築された。 |
大物忌神社 祭神 大物忌神 社伝に倉稲魂命とあり伊勢外宮の豊受大神と同神なり 由緒 社伝によれば第12代景行天皇の御代当国に現はれ、29代欽明天皇の御宇25年(約1400年前)に鳥海山上に鎮座されたと伝へられて居る。其の後貞観4年には官社に列し国家の祀典に預り延喜の制には摂社の月山神社と共に名神大社の待遇を受け諸国に一ノ宮を定められるに及び出羽一ノ宮として朝野の尊信を享け特に歴代皇室の御崇敬篤く度々叙位叙勲の御沙汰があり櫻町天皇の元文元年には正一位に叙せられた。 尚武将の崇敬も篤く前九年・後三年の役には八幡太郎義家戦勝を祈願し又南朝の忠臣北畠顕信卿が秋田縣由利郡乙友村を寄進した寄進状や鎌倉幕府が北目地頭に対し、当神社の修造を督促せしめた下知状国宝として現在神社に保存されて居る。 中世本地垂迹説の唱導により神佛混沌以来当神社は吹浦の神宮寺蕨岡の龍頭寺に於て社僧奉仕するところとなったが明治3年神佛分離に際し神式を以て奉仕することとなり明治4年吹浦大物忌神社を国幣中社と定められたが明治13年に至り鳥海山上を国幣中社大物忌神社の本殿として蕨岡及吹浦は口ノ宮として定められたが昭和20年終戦後は社格が廃止されて現在に至った。 主な祭日 (蕨岡口ノ宮) 1月7日 御種蒔神事 4月23日 講社大祭 5月3日 例 大 祭 6月25日 五穀豊穣祭 11月12日 新 嘗 祭 社頭掲示板 |
大物忌神社 出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社 由緒(略誌) 御祭神 大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神) 由緒 社殿によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と}えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が蕨岡と吹浦のニケ所に鎮座する。 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。 後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿之の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。 中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現どして社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年(1871)5月吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同13年(1880)7月に山頂本殿を国幣中社に改め、同14年(1881)に蕨岡・吹浦の社殿をロノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。昭和30年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。 平成19年(2007)当神社の社殿及び随神門・神楽殿が国の登録有形文化財に指定ざれ、平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる、広範な境内が、国の史跡に指定された。 主な祭日(蕨丘口ノ宮) 1月7日 御種蒔神事 5月3日 例大祭 蕨丘延年舞奉納 6月25日 五穀豊穣祈願祭・稲荷神社祭 10月2日 荘照居成神社祭 11月12日 新嘗祭 平成23年3月吉日 復元 NPO法人遊佐鳥海観光協会 社頭掲示板 |
大物忌神社 鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮境内 平成20年3月28日指定 鳥海山は、その雄姿と度重なる火山活動から、不安定な治安と相まって古代から神階奉授が繰返され、大物忌神(おおものいみのかみ)として崇敬されてきた信仰の山である。中世には修験道の霊場としてその地位を確たるものとした。近世になって、鳥海山を取巻く各地には、修験衆徒がそれぞれ活動拠点を設け、霊峰への登拝ロとした。なかでも蕨岡(わらびおか)の衆徒は、龍頭寺を学頭として、鳥海山表ロ、順峯・蕨岡三十三坊と称して、登拝ロの中でも最も強大な勢力を誇った。 本境内は、「大泉坊長屋門」(国登録有形文化財)など、宿坊集落の面影を残す上蕨岡(かみわらびおか)地区(通称「上寺」)のほぼ中央に位置する。庄内藩主酒井忠器公の寄進による「出羽一之宮」の扁額のかかる随神門(ずいしんもん)(かっての仁王(におう)門)を潜ると、右手に朱塗りの神楽殿が見えてくる。神楽殿では、五月三日の例大祭(「大御幣祭(だいおんべいまつり)」)にあたり、山伏の修行・通過儀礼と一体を成す芸能である「蕨岡延年」(山形県指定無形民俗文化財)が奉納されている。 さらに、参道を進むと、三の鳥居を経て、広い前庭をおいて、本殿が南面して建っている。かつての蕨岡ロの隆盛のありさまが偲ばれる豪壮な社殿である。この他、境内には、酒田の豪商本間光丘(みつおか)寄進の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(遊佐町指定有形文化財)や天保年間の三方領地替騒動に関わる矢部駿河守定謙を祀る末社荘照居成神社(遊佐町指定有形文化財)があるほか、約四百段ある石階を上った、松岳山中腹には、峯中修行の記念碑である「峯中碑伝」や、海抜150m程の低地に奇跡的に残されたブナ自然林(遊佐町指定天然記念物)がある。本史跡は、鳥海山の信仰、文化遺産を代表するものである。 社頭掲示板 |
大物忌神社 国登録有形文化財 鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮本殿 平成19年10月2日登録 本殿は、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)六間。切妻造銅板葺屋根で、正面に一間向拝を付ける。桁行総長は13.8m、梁間の実長も16.9mにも及び、床高も2.3mあまりと高く、非常に規模の大きい建物である。内部は外陣と内陣に分かれ、背面側の中央間に営殿(くうでん)を造る。絵様や装飾的な要素は少ないが、木割が大きく、直線的な意匠でまとめた、豪壮な社殿である。様式的には、伊勢神宮正殿を根源とする神明造(しんめいづくり)の系譜に連なる。 本殿は、明治29年(1896)に造営されたもので、高さ3.7m、幅55cm、厚さ8.5cmもの巨大な棟礼(むなふだ)が残されている。棟梁は、地元上寺の宮大工小野重吉である。棟札には当時の宮司名のほか、大旦那であった旧庄内藩の酒井家当主や酒田の豪商本間光輝(みつてる)の名前などが見える。戦後の昭和28年(1953)に、参拝の利便性向上のために、東の山手から現在地に移築されている。 社頭掲示板 |