当社が阿曇族の活動と密接な関係があつたことは疑いない。 全国に及ぶワタツミ神の奉齋や「アツミ」の地名の存在から阿曇族の海上活動の広範囲なことはよく知られたことであるが、その本拠は阿曇郷や志珂郷のある筑前国糟屋郡を中心とする北九州の海上一帯であろうと考えられている。 古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀(ほうし)されたと伝えられる。 |
由緒 古事記上巻に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也」即ち神代の昔伊弉奈岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ諸々の海の幸を知食し給ふ故に神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ひ又元寇の役その他国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり、さればしばしば勅使の奉幣あり延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸奉り神階を賜ふ等上下の尊崇深厚を極め神領等も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが其後久しく兵乱打続き神領等も次第に失せびて漸次衰微するに到れり然るに豊臣秀吉九州出陣に際し朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相についで社殿の造営神領の寄進等ありて凡そ面目を改めるも尚到底昔日の比にあらず、明治5年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが大正15年官幣小社に昇格仰出されたり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
志賀海神社 古来より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓によってご出生された綿津見三神を奉祭しています。 御祭神について 左殿 仲津綿津見神 中殿 底津綿津見神 右殿 表津綿津見神 ご祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神です。海上交通の安全をはじめ潮、魚介類といった海産物のお恵みをもたらす神と信仰され、また禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と潮を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされています。 志賀海神社の創建は明らかではありませんが、古くは志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、それぞれ「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られていました。 二世紀から四世紀の間に表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座し、併せて仲津綿津見神、表津綿津見神が奉祀されたと伝えられています。綿津見三神を祖神とする阿曇族が代々奉斎してきました。 平城天皇の大同元年(806年)に阿曇神に神封八戸が寄進され、清和天皇の貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられました。南北朝の頃には衰微しましたが、大内持世が再興し、さらに豊臣秀吉が50石を寄進しています。 小早川隆景、黒田長政なども崇敬していました。 神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。 志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。 阿曇磯良を海国から召し出そうと7日7晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。 公式HP |
志賀海神社 神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命の禊祓によって御出生された綿津見三神を奉祭している。 御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全をはじめ塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神と篤く信仰され、禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。 古来、綿津見三神を奉斎してきた神裔「阿曇族」は、志賀島を一大拠点とし、国内・大陸との交易を広く行い、経済的・文化的に高い氏族であった。その交易の足跡が対馬、兵庫、長野県安曇野市穂高、石川県志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など「しか」「あつみ」と称した地名に多く見られる。 創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で奉斎されており、凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御舟を導き守り給うた阿曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したと伝えられている。『三代実録』では貞観元年(859)従五位上、『延喜式』には明神大社に列せられ、神仏習合の御世では金剛山吉祥寺と称されていた。 中世、元寇の役など国家の非常に際しては赫々たる御神威を顕し給い、尊崇も深厚を極め社殿は壮麗で末社三七五社、社領五十石、奉仕する者百数十名と繁栄した。兵乱の世に衰微したが、豊臣秀吉の寄進や大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将の寄進もあり、今から約350年前に現在の社殿が再興、大正15年(1926)官幣小社に昇格している。神社への参詣は鹿島立(志賀島立)として海陸空の旅行を守られ浦参宮或は島参宮と称し、今なお海の守護神、禊祓の神、再生回帰の神として篤く信仰されている。 神社を中心に志賀島では、御祭神が禊祓の神であるが故に、神事に携わる時や参詣の折は厳しく斎戒を守り続けている。白砂青松の海ノ中道を有し、マテバシイの老樹鬱蒼とした古代の森と神跡を守り続けているこの姿こそ古代から連綿と続く阿曇族の姿である。 ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牡鹿の須賣神(万葉集 巻七) 名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道(細川幽斎) 由緒書 |