志賀海神社
しかうみじんじゃ


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【由緒】

【由緒】 当神社略記に曰く、人皇第十二代景行天皇即位12年、九州御巡幸の砌当社に祈祷あらせらる。因て見るに御創建は是より遥に上代なること確かなり。
古事記上巻に、此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也。阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也。
旧事記に底津少童命、仲津少童命、表津少童命(綿津見神の別号)此三神者、阿曇連等所祭筑紫斯香神也。即ち神代の昔伊弉那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ、心身の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして、海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ、諸々の海の幸を知食し給ふ故に、神功皇后御征韓に際しては、神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を率い御舟を導かしめ給ひ、又元寇の役、近くは日本海海戦等国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり。されば屡々勅使の奉幣あり、延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸を奉り神階を給ふ等、上下の尊崇深厚を極め、神領等も頗る多く、仲津宮沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが、其の後久しく兵乱打続き神領等も次第に失ひて漸次衰微するに至れり。然るに豊臣秀吉九州出陣に際し、朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相ついで社殿の造営神領の寄進等ありて、凡そ面目を改めたるも尚到底昔日の比にあらず。明治5年4月15日僅かに村社に指定せられたる状態なりしが、大正15年1月4日官幣小社に昇格仰出されたり。
 千早振る金の御崎を過れ共われは忘れし志賀の皇神 万葉集
 御笠山さしてやかよふ志賀の島神のちかひのへたてなけれは 細川幽斎
神社は諾尊禊祓の古事を伝へ、天浮橋の伝説を秘する白砂青松長汀三里の海の中道さながらに沼矛の如く海表に突出したる処僅に長橋を以て結べる霊島にして、神域は所謂志賀三山と称する勝山、御笠山、衣笠山を負ひ、面積凡そ三万坪老樹鬱蒼として森厳幽邃極まりなし。社殿東方直下は黒潮躍る玄海の怒涛玉を結び、正面はこれ天然の良港博多湾鏡の如く静かなり、古来龍の都或は龍宮と称せられたるも又以て故あることなり。
 名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道 細川幽斎
 浪風をおさめて海の中まても道ある国にまたも来て見む 宗祇法師
海神として、帝国海軍の祖神として、或は漁業者海運業者等の守護神として信仰最も厚く、或は禊祓の神として除災開運を恵ませ給ひ、吾人が日常缺くべからざる御鹽(鹽気)を授け給ひ、又潮の満干により人の生死(命)を司らせ給ふ外、鹿島立(志賀島立)と称し海陸空の旅行安全武運長久を守護せらる。依て古来裏参宮或は島参宮と称し、庶民の信仰極めて篤し。
【特殊祭事】 ・歳旦祭 旧正月元日
朝未明に神職と共に社人21人(60歳以上の老人)の玄海の浪打寄する当社禊場に於て各自禊をなし、昇殿21人の社人大祓詞参囘奏上す。是を前祓と称す、此の奏上終りて祭典開始せられつつあり、年中百八十余度の各祭儀は凡て是を斎行す。
・謠初祭 旧正月2日
謠初の式あり、此の日早朝宝蔵より謠本綿津見一巻を神前に出し、宮司祝詞奏上後祝詞座に於て綿津見一巻を謠ひ、畢つて玉串奏奠。此の祭典終了後神職全員社人ニ十一名阿曇家に至り所定の座席に著座、酒肴飯の馳走に預る事前、神職社人交々謠を謠ふ。此の事終りて氏子初めて謠竝に歌等唱ふ慣例なり。
・歩射祭 旧正月15日
天下泰平、五穀豊穣、悪魔退散の為とて、射手八人を定め、例年正月2日、一番座の一老職より六人目の家を稽古場と定め藁33把を以て巻藁を仕立て注連縄張り廻はし、同日より10日迄最も不浄を慎み之が稽古をなす。同月7日初門出とて町筋三町に的をかけて射るなり、同月11日より神社に籠り、朝暮海に入りて水垢離を取る、初日より15日朝まで町筋三町の行事は7日に同じ、初日より巻藁に射たる稽古矢(約3500本余)を村中家毎を矢をつがへて射て拂ふ、尤も不浄の家は行はず、同月14日射手8人勝馬神社御両社へ参詣、同所の荒磯に入り海水に身を浄め15日の歩射祭を行ふ。v 当日の的は直径六尺にして「コマナカ」は八寸なり、此の八寸の内に当るやう射手士八人荒行をなす、「コマナカ」に当らざる者は「スノコリ」と称す、射る所より的迄十二間なり。
・山譽 種蒔、漁獲祭、旧2月15日
古来斎行せられつつある特殊祭事にして、祭典後神饌に供へし籾を蒔く行事、竝に唱へ事等種々ありて社頭殷賑を極む。
・節句祭、田起祭 旧3月3日
社人八乙女悉く出社、当日は神饌中菱餅、紅白餅、草餅、竝に磯物、貝、海草、種々阿曇家より献供す。陪膳瓶の蓋取りし後、瓶に取添へある神酒に桃の花一枚宛挿す。
祭典後神前前庭に於て、田起の儀社人21名にて奉仕、夫々儀式唱詞等あり。後八乙女舞奉献。鍬は女竹と縄とにて三本作りたるを用ふ。
・田植祭 旧5月5日
古式に則る田植の行事、祭典後斎行す。
・七夕祭 旧7月7日
古来斎行せられ、夏の大祭にして当日は市が立ち社頭賑かなり。
・男山祭 旧9月1日
神饌祝詞奏上後直ちに祝詞座より進みて昇殿し「幣」の神占により当年御神幸の可否を決するに依り殊に大切なる祭なり。神占により御神慮に叶ひたる時は9月8日御神幸を行ふ。時によりてはニ三年も続きて御神幸あることあり、又時として四五年も御神幸なき時あり、斯かる際は神職としては巳の祭祀の精神が薄弱なる結果なりとして、神と氏子に對し最も恐縮する所なり。
・国土祭 旧9月9日
当日未明氏子内の男児にして、其の年に生れて百日を経たる小児は、母之を懐にして阿曇家に到り、其の子年老いたる後は古老として氏神官幣小社志賀海神社に奉仕すべきを誓ひ御神酒を捧ぐ。阿曇家に於ては其の子の父母をして随意に六座の内一を選ばしめ、之を座帳に記入し其の子へ神酒を授く。然して其の日より初めて其の子は一人前の氏子と認めらるることとなる。
斯くて小児が年老いて後古老に欠員を生じたる時は、座帳により順次古老に推薦せらる。故に座帳に記入なきものは年老いたりとも神社に奉仕すべき資格無きものとなる。
古老、21人
禰宜座、 一良、ニ良、三良、四良
大宮司座、 一良、ニ良、三良、四良
別当座、 一良、ニ良、三良、四良
検校座、 一良、ニ良、四良
宜別当座、 一良、ニ良、四良
楽座、 一良、ニ良、四良
各座の中禰宜座を上席とす。禰宜座、大宮司座、別当座を大座とし、検校座、宜別当座、楽座を小座とす。
大座の上位なる一良は各十日間神社に出仕し諸祭の手伝をなす。其の他の古老は祭典の際のみ奉仕、各古老の祭典に奉仕するは小祭以上なり、故に拝殿に各上位下位の席に着くを以て多数の祭員となる。
神饌品は各座四良調理す、其の係長は大宮司三良之に当る、各古老は出社の際は必ず外海に禊をなして出仕すること厳重なり。
・知子祭 旧11月13日
往古松浦潟の或る漁村の小児、唐船に誘拐せられんとしたる時、当社の御神助に依り救助せられたる其の報賽祭を行ふ。此の日神饌餅を搗く、此の餅を知子餅と云ふ、子供祭に参列の小児に授与す。
・元服祭、子供祭 旧11月15日
元服祭は氏子内19日歳の男子禊をなして此の祭典に参列す。
子供祭は氏子内三歳、五歳、七歳の小児等参列の上祭典す。
当社は年中百七十度の諸祭典あり。夫れ夫れ由緒あれども之を略す。
【例祭日】 9月9日
【主なる建造物】 本殿、拝殿、楼門、神饌所、社務所、神庫
【主なる宝物】 古代半鐘(国宝)朱雀天皇御宸筆、御太刀(雲生作)、社頭古図、神功皇后御征韓御絵図、古文書、狗犬、鹿の角(数千本)
【境内坪数】 8526坪
【氏子区域及戸数】 志賀島村の内字志賀島字勝馬、字弘、戸数約五百戸
【境内神社】 今宮神社(宇都志金拆神、住吉三神、天児屋根命)、惣社(八百万神)、大神宮(天照皇大神、豊受大神)、祇園社(素戔嗚命)、荒神社(奥津比古神、奥津比売神、火産霊神)、松尾社(大山咋神)、秋葉社(火具土神)、磯崎社(大己貴神、少彦名神)、山神社(大山祇神)、船玉社(天磐楠船神)、不勿来社(久那土神)、愛宕社(加具土神)
【摂社】 沖津神社(表津綿津見神、天御中主神)、仲津神社(仲津綿津見神)

福岡県神社誌



【由緒】

志賀海神社 しかのうみじんじや 福岡市東区志賀島。
旧官幣小社(現、別表神社)。底津綿津見神・中津綿津見神。底津綿津見神を祀る。綿津見三神は海の神である。『筑前国風土記』逸文には、神功皇后三韓親征の時、船を志賀島に留められたことが記されている。
また『万葉集』に「ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牡鹿の須売神」とあり、当社の神々を詠んだ歌が見えている。
平安時代大同元年(806)には神封八戸が充てられ、貞観元年(859)には、神階従五位上が授けられている。延喜の制では、名神大社に列し、祈年の国幣に預った。中世以降、大内・大友・豊臣・小早川・黒田氏等の篤い崇敬を受け、近世に至っては、神領五〇石を有していた。大正15年(1926)1月4日、村社より官幣小社に昇格した。例祭9月9日。1月15日に歩射祭が行われる。

神社辞典






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