火男火売神社(下宮)
ほのおほのめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】火男火売神社 二座 豊後国 速見郡鎮座
          (中宮)火男火売神社(中宮)
          (上宮)火男火売神社(上宮)

   【現社名】火男火売神社(下宮)
   【住所】大分県別府市鶴見9488
       北緯33度18分34秒、東経131度27分59秒
   【祭神】伊弉諾命 伊弉册命 火之加具土神 大山祇神
       本来は火之加具土命、火焼速女命であろう

   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】県社
   【由緒】宝亀2年(771)創紀
       嘉祥2年(849)6月1日火男・火売二神に従五位下
       貞観9年(867)1月20日、鶴見山噴火
       貞観9年(867)8月16日二神に正五位下
       建治2年(1276)時宗の開祖一遍上人参拝
       天正(1573〜91)の頃、大友宗麟のために当社殿は焼失
       寛永14年(1637)1月1日久留島通春公社領寄進
       寛文4年(1664)3月神殿を新築
       明治7年11月8日、神殿以下全社殿が焼失
       明治12年7月6日県社(下社)

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】本来は火山としての鶴見岳を祀る
   【祭祀】江戸時代は「鶴見権現」と称していた
   【facebook】 火男火売神社
   【社殿】本殿流造 檜皮葺
       拝殿・神樂殿・社務所

   【境内社】神明社・天満社・秋葉社・川底天神社・稲荷社・金刀比羅社

神社は鶴見山の山頂、中腹(東山)、山麓(鶴見)の三社あり、山頂は石祠、東山の社を「御嶽権現」(いわゆる中宮に当る社)、鶴見の社を「鶴見権現」(下宮に当る社)と称している。
火男火売神社は、鶴見岳が噴火したとき、神前で大般若経を唱えた。その功績で朝廷から正五位下に叙された。以来火を治める神として、また今日では別府温泉の守り神として信仰の対象になっている。天正年間(1573〜91)、大友宗麟によって社殿が焼かれ、古文書なども焼失したが、寛文4年(1664)、領主久留島道清が神殿を再建した。
祭神で社名の由来ともなっている火之加具土命、火焼速女命は、神体山である鶴見岳の2つの山頂を男女二柱の神に神格化したものと考えられる。


由緒

延喜式内火男火売神社史略年表
嘉祥2年(西暦849年  1125年前)6月1日当社の祭神火男・火売二神に対し、朝廷(仁明天皇)から従五位下を授けられた(続日本後紀)。
文徳天皇の御代(850〜58)、当地の豪族鶴見為重が勅命によって当社の別当職に兼補せらたという。
なお、同氏の祖秀澄は、天応元年(781)に鶴見郷内に居館を構えたという(鶴見氏譜系図)。
貞観9年(867=1107年前)1月20日、鶴見山噴火。鳴動は三日間続き、降灰は数里の間に積った。2月26日、この事を太宰府より朝廷(清和天皇)に報告した。4月3日、朝廷は豊後国司に命じて、火男・火売二神の怒りをやわらげるために、神前で大般若経を読ませた。8月16日、二神に正五位下を授けた(三代実録)。
これによってもわかるように、火男・火売二神は、もともと火の山鶴見の二峯(男嶽・女嶽)を神格化したものである。つまり、山そのものが神と考えられていたのであるから、当社の起源は極めて古いわけである。また、別府温泉は鶴見火山のおかげで湧出しているものであるから、当社の御祭神は別府温泉の守り神ともいうことができよう。
延長5年(927=1047年前)、「延喜式」五十巻ができた。その「神名帳」に記載されて、毎年2月の祈年祭に当り、神祇官、もしくは国司から奉幣に預る神社を「延喜式内社」・「式内社」・「官社」などとよんだ。当社も式内社に列した。豊後国では、当社のほか直入郡の建男霜凝日子神社(嫗嶽大明神)、大分郡(大分町東稙田)の西寒多神社、速見郡(大分郡湯布院)の宇奈岐日女神社、海部郡(北海部郡佐賀関町)の早吸日女神社(関の権現さま)など、わずか四社が式内社に列していたにすぎない。これによって当社が「タカガミさま」であったことがわかる。
建治2年(1276)、時宗の開祖一遍上人(遊行上人)が九州巡錫の途中当地に立寄り、鶴見権現(火男・火売神)の教えによって鉄輪の石風呂(蒸風呂)を開いたという。また当社境内の楠木に爪ぼりの六字の名号を残したと伝えられる。この時、豊後国守護大友より泰は深く上人に帰依し、一寺をたてて上人に奉った。
上人は、温泉と、その幼名松寿丸にちなんで、この寺を温泉山松寿寺(現在の永福寺)と命名したという(永福寺由緒)。
弘安8年(1285=689年前)、このころ当社は十五町余の神領を有していた(豊後国図田帳)。今も字名に残る正月田・薬師田・ブグ(仏供)田などは、その名残りであろう。
弘安10年(1287)8月、神官加藤氏の祖先加藤兼定が讃岐国から当社宮薗屋敷に来住した(加藤氏系図)。
鶴見氏はこれより先に上方へ移住していたようである。(後藤武夫氏所蔵「鶴見氏譜系図」)。
文明元年(1469)11月3日、府内(大分市)春日神社の湯立神楽の時、当社神官加藤兼盛は、豊後国守護大友政親から頭宮大夫という神官号を授けられた(加藤氏系図)。
天正(1573〜91)の頃、大友宗麟のために当社殿は焼かれ、古文書等もすべて焼失したという(太宰管内志)。
文禄2年(1593)、大友氏滅亡。
慶長5年(1600)9月、関ガ原の戦。この時、大友義統(宗麟の子)は大友氏の再興をはかって兵を挙げたが、石垣原で黒田孝高(如水)と戦って大敗した。
慶長6年2月、久留島康親が伊予から玖珠郡森に入城した。当地は久留島領となった。
寛永14年(1637=337年前)1月1日、久留島通春公が「九月田」の田三段二十歩を社領として、また宮まわりの森を社殿造営用林として寄進した(加藤芳彦文書)。神官加藤兼義が同公から福大夫の神官名を賜わった。これが福大夫の始めである(加藤氏系図)。
寛文4年(1664)3月、領主久留島通清公が当社神殿を新築した(棟札)。
延宝年間(1673〜80)4月、然散禅師が宝泉山実相寺を再興し、安楽茂林和尚を第一祖とした(豊鐘善鳴録)。
元禄3年(1690)4月、松川勘右衛門が石燈篭一基を寄進した(銘)。
宝永3年(1706=268年前)3月、字宮司の二ノ鳥居がたてられた(銘)。
享保3年(1718)12月4日、神官加藤金光が、祭事の時に風折烏帽子と紗の狩衣を着用することを、神祇管領卜部家から許可された(神道裁許状)。
享保18年3月9日、遊行57世の上人が当社へ参詣して、六字の名号を献納し、銭五〇〇文を寄進した(永福寺文書)。
元文4年(1739)9月、原村の久士目佐次衛門が石燈篭を寄進した(銘)。
延享3年(1746)9月、原中の板井兵左衛門が石燈篭一対を寄進した(銘)。
寛延元年(1748)9月、原の有志八名が石燈篭を寄進した(銘)。
宝暦6年(1756)8月23日、薩摩の僧諄盈が一遍上人爪ぼりの名号と称せられるものに模して名号をほった。これは今も永福寺に所蔵されているが、その材は、もと当社々前にあった楠であると伝えられている。建治2年、上人はこの楠に爪ぼりの六字の名号をほったが、のちの天正年中、領主大友某がこの楠を伐って船材として用いた。ところがその船は一向に動かず、ついに廃棄してしまった。村民某が船材の一部を以て机を作り、代々秘蔵していたものを諄盈上人がもらい受けて、これに、一遍上人の爪ぼりの名号に模した六字をほりつけたものであるという(銘)。
文化8年(1811)、空山玄海和尚が永代常夜燈料として田一段二畝五歩を寄進した。
文政元年(1818)4月24日、神祇管領占部良長が当社に幣帛を奉った。いま拝殿にかかげられてある額は占部氏の筆と伝えられているが、或いはこの時書いたものであるかもしれない。10月、領主久留島通嘉公が社殿を新築した。造営奉行は北中の庄屋直江雄八郎と原中の庄屋直江武十郎であった(棟札)。
嘉永元年(1848)11月24日、馬場の西山一統が天満宮に神田若干を寄進した(寄進札)
嘉永5年、南・北鉄輪村の氏子中より常夜中燈一基を寄進した(銘)。
安政6年(1859)12月、馬場組が天満宮の鳥居を寄進した(銘)。
万延元年(1860)6月、馬場組が三ノ鳥居を寄進した(銘)。
文久4年=元治元年(1864=110年前)4月、千年祭をおこなった。千年祭を記念して松川俊策が石燈篭一対、加藤秀朝が石造狛犬一対、小倉組(代表佐藤忠右衛門)が南ノ鳥居を、それぞれ寄進した(銘)。
明治7年11月8日、神殿以下全社殿が焼失した。その後、応急の社殿・拝殿を建築した。
明治12年7月6日、県社に列せられた。
明治14年、神殿を新築、拝殿を改築した。
明治31年2月、竹ノ内組(代表加藤永次)が秋葉社の鳥居を寄進した(銘)。
明治36年8月4日、宮地上の林地の縁故払下の許可が出た。この払下については当時の朝日村々長加藤累三が明治25年より熊本の大林区署に往復すること22回、また社掌加藤正男、社総代西山馬作・加藤永次の献身的努力と、武内勢平・同則彦の経済的援助に負う処が大きかった。払下を記念して特に祭典をおこない、且つ氏子中より石燈篭を社前に寄進した(銘)。
大正2年(1913)、御即位大典記念として秋葉社を竹ノ内から当社境内に移転し、石祇祠を新造した(銘)。
大正4年11月、御即位大典記念事業として社務所を新築した。経費の大部分は氏子中の頼母子醵金によった。加藤泰堯が石燈篭一基を寄進した。
大正8年9月、男爵山内万寿治が石燈篭一対を寄進した(銘)。
大正10年4月26日、遊行64世尊照上人が当宮に参詣し、木札に、「南無阿弥陀仏」の名号と、「わが祖師のねぎごとたりてよろこびし熊野のあさのむかしをぞとおもふ」の和歌をしるして献納した。
大正12年5月、御越町(亀川)の永田敬蔵が石燈篭一対を寄進した(銘)。
大正15年10月、西山吉郎・加藤永次が字宮司の一ノ鳥居を寄進した(銘)。
大正年間、加藤累三が石燈篭を寄進した(銘)。
大正15年〜昭和2年2月、神殿を四間後方(現位置)に移した。
昭和2年10月、神殿と拝殿の間に幣殿(申殿)を新築し、拝殿・亘殿を改築、神楽殿の模様替(茅葺→瓦葺等)をおこなった。この年加藤リュウ・加藤スイが御即位大典を記念して石燈篭各一基を寄進した。
昭和9年、神輿三基を新調した。
昭和16年2月、お旅所を改築した。
昭和27年2月、お旅所が焼失した。同年7月、お旅所を再建した。
昭和34年、1110年祭をおこなった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




火男火売神社

火男火売神社由緒
當火男火売神社は一名鶴見権現とも敬称し今から1040年余醍醐天皇の御代延喜年間に朝廷の神名帳に登載され(これを延喜式内と云う)降って江戸時代は玖珠藩主、久留島家代々の尊崇を受け明治12年7月6日大分県下屈指の県社に列せらる。
御祭神
伊邪那伎神
伊邪那美神
火迦具土神
今を去る1123年前の嘉祥2年に時の朝廷より従五位下の階位を1105年前の貞観9年1月20日うしろに聳ゆる鶴見山(海抜1375m)が大爆発を起こした際これを鎮められた功績により従五位上の階位を賜はった神様である(続日本後紀三代実録参照)この爆発鎮静の際に鶴見山麓一帯に世界的有名な別府温泉を恵み給った火の男女の神様である。
文久4年壱千年祭、昭和34年壱千百十年祭を厳かに執行した。

社頭掲示板



火男火売神社

創立年代詳ならすと雖も、延喜式に、速見ノ郡火男、火売神二座大とあり、神名帳考証に「火男火売神社二座、在鶴見山、火産霊命、続日本後紀云、嘉祥2年、奉授豊後國字奈岐比盗_、火男火盗_、並從五位下、三代実録に云、貞観9年2月26日丙申、太宰府言、從五位上火男神、從五位下火売神二社、在豊後国速見郡鶴見山嶺、山頂有三池、池泥水色青、一池黒、一池赤、去正月20日池震動、其声加雷、俄而死如、硫黄通満國内、磐石飛乱、上下無数、石大者方丈、小者如甕、昼黒雲蒸、夜炎火■、沙泥雪散、積於数里、池中元出温泉、泉水沸騰、自成河流、山脚道路往還不通、温泉之水人於衆流、魚酔死者千萬数、其震動之声経歴三日、日本紀に云、軻遇突智娶埴山姫」とあり、神社覈録に「火男火売は保乃袁乃女と訓べし、祭神欠く、鶴見山に在す、神位、続日本後紀、嘉祥2二年6月癸未朔、奉授豊後邦火男火盗_從五位下、三代実録、貞観9年8月16日壬午、豊後國從五位上火男火盗_、並從五位下」と見え、尚頭註に「今按るに貞観9年2月條に依れば、火男の下に、神從五位下の五字脱するか」とあり、神領は、豊後國圖田帳に「(弘安8年10月16日)鶴見社御神領十五町余」と見え、神祇志料に「今鶴見村鶴見山に在り、鶴見社といふ、火男神、火盗_を祀る」と云へり、大宰管内志に「直江氏云、当社は往古度々の災に懸つて、今は神社も山麓に造れり、昔遊行上人回國の時、此邊に温泉有るに依て、熊野三所権現を祀る、それより熊野社と称へ來れり、さるを天正の比、大友氏の爲めに焼かれて、旧記等悉く亡ぶ、往古よりの別当職も退転せり、其家今は丹波國亀山の家臣と成て、鶴見某と號す、社僧の坊號、園内坊など地名に残れり、此地慶長の初め、久留家の領地と成りしより、神官加藤氏今に相続せり、祭礼に領主の代参あり、文政元年に宮殿悉く造営あり」と云へり、明治6年郷社に列し、同12年7月6日縣社に昇格せらる。
社殿は本鍛、渡殿、拝殿、回廊、神樂殿、神饌所等を備へ、境内2752坪(官有地第一種)、外に984坪(上地林編入)あり。

明治神社誌料



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