当社の鎮座する神島の沖に、高島という島がある。当社は、もとは高島の王泊にあったとする。 また、神島神社の社殿は砂洲上にあつたといわれ、「神祠は潮迫より西に斗出したる砂洲水沖にあり、往時は南西北の三面海にして北方一帯の海濱は塩濱なりしも、今は開墾して南一面のみ海に臨めり」(『神島巡游案内』)とあつて、高島との狭い海挾に臨む入江の入口に延びた砂洲上に鎮座していた。 |
由緒 神島神社略記 当神社は式内社なり、即ち延喜儀式神名帳に備中小田郡神島神社とある。御祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)興世姫命を奉斎す。創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられ室町時代(1547)天文16年に本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知られる、大正15年8月15日に第六回目の改修工事を行ない当時の様式を偲ぶことが出来る。命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に八年間 駐屯後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第一代践祚の大偉業を成し給う。妃興世姫命は、部下を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産土神と斎き奉る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
神島神社 延喜式内神島神社縁起 神島神社一名興世明神といい御祭神は神武天皇御名神日本磐余彦命皇后興世姫尊の両座を祭祀す。 神武天皇は天照大御神の五世御父鵜茅草葺祐尊御母玉依姫命の第四皇子で瓊瓊杵尊の曾孫に当たり紀元前高天原日向(宮崎県)から瀬戸内海を経て東征の砌神島沖の高島に七年間御註輩遊ばされました。天皇がご滞在いたされました所が現在の王泊です。皇后興世姫尊は神島外浦の地に部下を率いて御駐在遊ばされました。この外浦の地は高島の行宮として天皇は常にお越しに相成り狩等されて居られました。神島見崎には天皇が御手をお洗いになられたという御手洗の池がございます。 その後天皇は再び東征に向かい難波(大阪府)に上陸しましたが長髄彦の妨害に会い迂回して紀伊半島の南から吉野を経て大和(奈良県)に入り長髄彦を破って平定し橿原の地に皇居を定められ紀元前(660)2月11日即位紀元の式典を行い第一代天皇となられました。 皇后興世姫尊は神島の地に残られ島民の為め数々の手厚い施しを致され後に此の地で没せられました。土地の者は早速社を建て興世明神としてお祀り致す様になりました。 神亀3年(726)神島神社として神武天皇さま興世明神さまをお祀りする様になりました。嘉祥4年(851)55代文徳天皇貞観元年56代清和天皇神島神社の詞畔を読み給う。寛平年間菅原道真公が神島神社を調査に来られ延喜2年(902)宮中に於いて全国の主な神社を調査神名帳に登録される・神島神社は延喜式内社の称号を授けられ官社となりました。社は古くからありますが天文16年(1548)元禄4年(1691)水野美作守明治22年明治天皇建立、現本殿は大正15年建立のものでございます。 社頭掲示板 |
神島神社 この神社は、国鉄・山陽本線笠岡駅から南々東へ約11Km、国道二号線の富岡交差点からは南へ約8Kmの、笠岡市神島外浦字南水沖1706番地にある。もと村社。地元では、通称“興世明神”とも呼んでいる。 この神社の沿革などについては未詳であるが、所在地については幾つかの説がある。一つは神武天皇が東遷の途次、三年間滞在した吉備の高島宮があったという伝説の地・高島の王泊にあったが、大地震と津波で崩れたので、神社が現在ある島に移し、島の名も神島と改称したというものである。移したその位置は、現在の神島内浦字御崎の御崎神社(現在は同所の天神社に合祀)に当たるという。さらには、高島との狭い海峡に臨む入江の入口にのびた、砂州の上にあったとする説などがあるが、いずれにしても、この神社は航海の守護神としての性格を強く持っていたようである。 祭神は、神武天皇とされているが、興世明神とする説もある。 この神社は、元禄4年(1691)に備後福山藩主・水野美作守が再興したとされているが、現在の社殿は大正13年(1924)に再建されたもので、本殿は、一間社、千鳥破風付き・入り母屋造り(唐破風向拝付き)・銅板葺き(もとは桧皮葺き)である。 境内地はだだっ広く、南側は県道・神島外港線を隔ててすぐ瀬戸内海が広がっている。 |