神島神社
こうのしまじんじゃ


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【由緒】

延喜式内神島神社縁起
神島神社は一名を興世明神といい、御祭神は神武天皇御名神日本磐余彦命、皇后興世姫尊の両座が祭祀されている。
神武天皇は、天照大御神の五世御父鵜茅草葺祐尊、御母玉依姫命の第四皇子で、日向の高天原から瀬戸内海の海路を経て大和に向かう東征の際、砌神島沖の高島に七年間御駐留なされた。その御座所が現在の王泊である。
皇后興世姫命は、神島外浦の地に部下を率いて御滞在なされた。ここ外浦の地は高島の行宮として天皇がたびたびお越しになり、狩などをされておられた。
神島見崎には天皇が御手をお洗いになられたとの故事にもとづく御手洗の池がある。
天皇は、高島を発って東征の緒に就かれ、紀伊半島の熊野から吉野を経て大和に入り長髄彦 ( ながすねひこ ) を破り同地を平定し、紀元前660年2月11日橿原の宮で即位紀元の儀式を執り行い、初代天皇に即位された。
皇后興世姫尊は、引き続き神島に御滞在なされ、島民の尊敬を集め当地で薨じられた。
島民は早速社を建立し、興世明神としてお祀りした。
神亀3年 ( 726年 ) 神島神社が創建され、神武天皇と興世姫の二柱命をお祀りするようになった。
尚、神島神社は延長5年 (927年 )延喜式内社の称号を授けられ官社となった。

社頭掲示板



【神島神社祭礼奴行列】

神島外浦に伝わる奴行列は、江戸時代に行われていた西国大名の参勤交代の途次、海路潮待ちのために此の地に碇泊した御座船の一行を慰めようと、当時 ( 1660年頃 )駐在していた備後福山藩水野候の足軽たちが奴踊りを披露したことに由来する。
その後も島民の間で伝承されていた奴踊りを文化年間 ( 1810年頃 ) に神島神社の祭礼に取り入れようと、笠岡在住の篤志家、難波太治兵衛や地元の氏子らにより手直しされたものが、今日の奴行列になったと伝えられている。

社頭石碑



【神武天皇行宮跡】

神武天皇行宮跡 高島神社 宮内大輔杉孫七郎謹書。
総ての尊き事慕わしきことは、先人の歴史があってこそ今の我々がある。大きな木も、基になる幹がなければ枝葉は存在しない。 何かの所縁 ( ゆかり ) に心引かれ、強い古 ( いにしえ ) を感じるのは、確かな歴史があるからだ。
まして、日本の皇室にご縁がある事柄は疎かに出来ない。この岡山の地に残る高島もその重要な一つであります。
神武天皇が九州の宇佐から崗 ( おか、筑紫 ) や埃 ( え、安芸 ) の宮を経て吉備の高島にお立ち寄りになった大切な土地であります。
神島 ( こうのしま ) もその北方十町 ( 約1q ) ばかり離れているが、元は一つの島であったが、荒い潮流で堀り別けられ別々の島になった。 が、そこに天皇のお手植えの神木が、地元で大切に守られてきた。
その枝ぶりも高く繁り、流れる眞名井の水も豊かで、それ以外にも古代の土器なども出土していて、古の栄えが偲ばれる。 この高島には天皇が留まった王泊 ( おうどまり )との地名があり、日本書記では三年ほど滞在され、その間に軍備や兵糧を貯えて、この国を閉廷委しようと準備をなされた地であり、その面影を残している。
この地を出発され大和の国に至り、各地を転戦され、反抗する輩を平定し、その地を初めて治められたので、紀元と定められた。 しかしあれから時を経て忘れがちだが、それでもこの高島は今の世にまで受け継がれてきた。 これも神武天皇の御霊のお導きであろうか。
この事実を最初に発見したのは高木禎吾 ( 地元在住の医者で学者 ) といわれる人であったが、松田謙三 ( 明治11年から17年間岡山に滞在 ) 等と相談して、高崎五六岡山県令 ( 明治8年から17年在職 ) を通して杉宮内大輔 ( 宮内庁の役人 ) に報告した。 一昨年の春になって宮内省から若干の予算がついた。
主としてこの神木の周辺を公的な地とし、同時に高島神社の社も新築して欲しいとの氏子の要望も許可になり、河田三七なる人も土地を寄進して、神社建築に至ったことは、王道の正しい御代に相応しく素晴らしいことであった。
このように努力された関係者の名を伝えて顕彰碑を残し、後の世に古を偲ばせ、永く伝えることは大切で、この碑文に拠って思いを馳せていただきたい。
明治17年 大教正 田中頼庸 謹撰              植松有経 謹書
        明治期の神道家 伊勢神宮大宮司ほか     幕末明治期の歌人
        杉孫七郎
        明治七年から大正九年 子爵

社頭石碑






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