姫丸稲荷神社
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   【延喜式神名帳】石上市神社 大和国 山辺郡鎮座
          (現在社)石上市神社

   【現社名】姫丸稲荷神社
   【住所】】奈良県天理市石上町
       北緯34度36分54秒,東経135度50分21秒
   【祭神】宇賀御魂神 
   【例祭】 
   【社格】 
   【由緒】石上市神社の旧社地とする。
       貞享年間(1684〜87)石上市神社は移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】石上市神社の旧社地とする。
        貞享年間(1684〜87)石上市神社は移転
        この地は仁賢天皇石上広高宮の地と伝う。

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】末社が多い

なだらかな尾根の上の山中、竹林の中に鎮座する。この地は仁賢天皇石上広高宮の地と伝う。
もとこの地に石上市神社があり、貞享年間(1684〜87)石上市神社は現在に移転した。
石上市神社の境外末社である。
光明皇后が平尾山に建立した観音院本光明寺が承和2年(835)に山を降りて櫟本の地に遷ったとき、当稲荷社のみが後に残ったものともいう。


平尾山稲荷神社

平尾山稲荷神社(石上廣高宮伝承地)
 「在原神社」から東へ行って、直ぐの国道169号線へ出たら渡って右(南)へ行き、正一位姫丸大明神と彫られた小さな石碑の所から東へ800m山の中へ入ると、左手に古びた朱色の鳥居がずらりと並び奧に「平尾山稲荷神社」が鎮座しています。ここ平尾山は旧地名を「宮の屋敷」と云って、日本書紀に書かれた第24代仁賢天皇の石上(いそのかみ)廣高ノ宮や、天皇の父の市辺押磐皇子の石上市辺ノ宮があった所と考証され、また、第61代醍醐天皇の時に編纂された延喜式に記される「石上市神社」は、ここにあった宮ですが、神社は江戸時代の中頃、石上村の鎮守として移され、跡に今の平尾姫丸稲荷大明神が残りました。



平尾山案内記社

平尾山稲荷神社の境内を中心として平尾山の大部分は旧地名を「宮の屋敷」といった。日本書紀によると第24代仁賢天皇の石上広高宮や、その御父市辺押磐皇子の石上市辺宮は、この「宮の屋敷」の地にあったと考証されている。更に東方には大塚、うわなり塚など5世紀頃の大きな前方後円墳や何十という古墳が残っている。又明治16・7年には神社の東方100mの地より2個の銅鐸が出土して、この地域が古代の文化中心地帯であったことを立証した。特に前記仁賢天皇の時代は大和朝廷の所在地として、わが国政治・文化の中心だったのである。
これは今から1500年も昔のことであるが、その後奈良時代から平安時代も平尾山の麓には民家が建ち並び、石上寺・在原寺・六坊寺・薬師堂などの寺院が営まれた。
「在原寺縁起」によると第51代平城天皇の皇子阿保親王は石上の在原の地に住まわれ、承和2年(835)に平尾山にあった補陀落山本光明寺を在原に移して在原寺を創建しその本尊十一面観音を迎えておまつりをしたということである。また親王の子で六歌仙の一人とうたわれた在原業平朝臣は、この石上で産まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名付けられた。
「宮の屋敷」というのは石上広高宮の屋敷という意味であったかもしれないが、後には宮址に祀られた平尾のお宮の屋敷と考えられてきた。第61代醍醐天皇の時に編纂された延喜式に記されている石上市神社はこのお宮のことである。
この神社は江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移されたが、稲荷神社はこの旧地のお宮にお残りになった。これが正一位平尾姫丸稲荷大明神で宇賀御魂の神を祀る。この稲荷神社は昔から石上村に限らず遠近の人々から篤く信仰され、五穀豊穣、家内安全、商売繁昌を祈願する人々、平尾丸の在原業平のように賢い子供をという親心から信心する人々など跡を絶たず。
特に初午の早春のころ参詣者で一山を埋めるにぎわいを呈する。
昭和40年3月
撰文 仲川明

社頭掲示板

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