都祁水分神社
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   【延喜式神名帳】都祁水分神社(大 月次/新嘗)大和国 山辺郡鎮座
          (旧地)都祁山口神社

   【現社名】都祁水分神社
   【住所】奈良県奈良市都祁友田182
       北緯34度35分50秒,東経135度56分50秒
   【祭神】速秋津彦命 (合祀)大国魂命
       天水分神(特選神名牒 神社覈録)
       速秋津彦命(神社明細帳)
       一宮都祁水分神、二宮天水分神、三宮国水分神(水分大明神垂跡記)
       天水分神・国水分神(神祇宝典)

   【例祭】10月25日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創建年月不詳(神社明細帳)
       天平2年(730)大和国大税帳に都祁神戸
       承和7年(840)従五位下『続日本後紀』
       仁壽2年(852)官社に列し『文徳実録』
       貞観元年(859)正五位下『三代実録』
       同年9月8日風雨を祈つて奉幣『三代実録』
       元慶3年(879)9月21日鎭座とする『社伝』
       寛平3年(891)二階堂別当が社殿を高山の下端に造営
       天禄2年(971)坂窪山に社殿造営し、下宮とし、旧地小山戸を上宮とした
       長元2年(1029)、康平5年(1059)、永保2年(1082)修造
       承徳2年(1098)、長承3年(1134)修造『二階堂院家御沙汰』
       承安4年(1174)修造『二階堂院家御沙汰』
       建暦2年(1212)、寛元元年(1243)、弘安2年(1279)
         修造『大乗院御沙汰』
       文明11年(1479)、明応7年(1498)社名記載『大乗院寺社雑事記』
       明治4年(1871)に改めて三〇ケ村の郷社
       昭和2年(1927)県社

   【関係氏族】都祁直氏
   【鎮座地】旧地は都祁山口神社の地であるという説が有力である
        寛平3年(891)小山戸高山の山麓に移
        天禄2年(971)現在地に社殿造営し、下宮とし、旧地小山戸を上宮とした

   【祭祀対象】水分の神
   【祭祀】
   【公式HP】 都祁水分神社
   【社殿】本殿一間社春日造桧皮葺 重要文化財に指定
       御霊舎・拝殿・神門祝詞舎・神饌所・社務所・渡廊・神輿庫兼祭器庫・納屋

   【境内社】水分神社・大国神社・御霊神社・国津神社・琴平神社・白龍大神

多くの木々の杜に囲まれているが、平成10年秋の台風で、社域の木々も多く倒壊しており、鬱蒼と言うよりは、明るい杜になっている。
元慶3年(879)二匹の白龍の一つが宇陀水分神となり、もう一つが小山戸庄高山に飛び降りて都祁水分神となったとある。
しかし、当社縁起の鎮祭年次より遙に早くより、国家祭祀の神として顯れていた事が知られている。
水分大明神垂跡記によると、元慶3年(879)現都祁山口神社のある大字小山戸の高山に萱葺の社殿を建て、寛平3年(891)高山の山麓に移した。
しかし、小山戸への参拝道が狭いため、天禄2年(971)現在地に移して下宮と称し、元の小山戸を上宮と言ったという。その後、だいたい30年から48年に一回の造営があったようである。
現在の鎮座地は聖武天皇が行幸の際に使用された堀越頓宮の伝承地


都祁水分神社

内大社都祁水分神社略記
都祁水分神社は都祁村友田にあります。広大な森、長い参道、古来よりの水の神として崇敬されています。
祭神は速秋津彦神・天水分神・国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊とせられています。当社の歴史については古来大和国の水分4社の1つで、飛鳥時代に創祀されたと伝えています。最初の鎮座地は、当社より3キロ南方の小山戸カモエ谷の都祁山口神社の地であります。
この地に祀られた自然神で、また、農耕神として、大和川、木津川の水源の神として、奈良朝時代「神戸」を寄せられ平安時代仁寿2年官社に列せられ、貞観元年には「正五位下」に進められました。延喜式には大社に列し、月次、新嘗の官幣にあづかっています。平安時代の中頃当地区に興福寺喜多院二階堂の荘園が成立しました。藺生、小山戸、友田、南殿、白石、無山、向淵の7庄で開発が進むとともに水分神は信仰をあつめ、荘園の中央友田へ遷し祀られることとなりました。天禄3年9月25日のことです。この社地は奈良朝時代聖武天皇の行幸された堀越頓宮の伝承地であり、平安時代に伊勢齋宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもあります。鎌倉時代の初め喜多院二階堂領は、同じ興福寺の大乗院領となり、水分神社も大乗院家の指示で、当地方に、成長した武士が氏人となり、護持されました。これらのことは応永31年に作られた当社縁起に詳記されています。
室町中期の明応8年7ケ庄の反米によって造営されたのが現本殿であります。
江戸時代には7庄の氏神として地方的な信仰をえ、殊に藤堂藩大庄屋、小山戸の北氏は当社の護持に一段と力をつくしています。明治維新の後、当社は郷社となり後県社に列せられました。
当社の祭礼は古くより春日「おん祭」を模倣して盛大に行われ、神輿は9月25日、小山戸山口神社に渡御せられ、翌26日遷御され、田楽、佃男、流鏑馬があり能狂言も催されていました。
本殿(重要文化財)1間舎春日造桧皮葺で梁行2.6m、桁先3mの大きく雄健な建物であります。向拝の斗KYOUは連3斗、蟇股には牡丹の丸彫が入っています。御霊舎、本殿内に安置されている旧神輿で、床板裏に「康正3年丁丑9月25日造立之」等の墨書銘があって、室町前期の建造であることが知られる貴重な遺品であります。石造狛犬、本殿前左右に安置されている。一対の狛犬で安山岩製、高さ0.7mでどっしりとして肉取りに抑揚があり、顔の表現もすぐれ頭髪や胸毛も豊で、尾の意匠はそれぞれ変化があります。鎌倉末期の作と認められている優秀なものであります。
以上、水分神社の大畧であります。長い歴史の荒波にたえて、水分神社が護持されたことは、農耕神として霊験いちじるしい御神徳と一般のあつい信仰によるものであります。
(注)文中のKYO は「木」偏に「共」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




都祁水分神社

水の神都祁水分神社
都祁水分神社は、大和の国水分四社(都祁・宇陀・吉野・葛城)のひとつで、速秋津彦命、天之水分神、国之水分神祭られています。水分は、水配:山から流れる水がわかれる所 を言い、当地では大和川と木津川の分配を司る神として古くより崇敬されてきました。
すでに天平2年(730年)の大倭国正税帳に「都祁神戸」と記せられ、延喜式にもある由緒ある神社です。
はじめは、友田の南方大字小山戸て祭られていましたが、天禄2年(971年)に、現在の場所に移されています。
本殿は、室町時代中期、明応8年(1499年)に造営され一間社春日造、桧皮葺の中世社殿として国の重要文化財に指定されています。又本殿の前には、鎌倉末期の作と推定される一対の狛犬があり、早期狛犬の秀作として注目されています。
ほかに、国指定重要文化財の棟札、県指定文化財の御輿、板絵、絵巻が収められています。
都祁山の道堀越頓宮跡
都祁の里では大和と東国・伊賀・伊勢を結ぶ“都祁山の道”が開かれて要地として栄えていました。ここは、天平12年(740年)に、聖武天皇が東国行幸のおりに、400人におよぶ供を連れ、一泊された頓宮(仮の宮〕と伝えられていますが、その場所をはっきりと定めることは難しく、水分神社より北西約500mの山に「堀越し」と称ずる伊賀や伊勢の頓宮跡と同様の地形があり、都祁の里の中でも古代史における史料学的検討のまたれる所でもあります。

社頭掲示板



都祁水分神社

式内大社 都祁水分神社 都祁村友田
祭神速秋津彦命 天水分神 国水分神
古来大和国水分神四社の一で飛鳥時代に創 祀されたと伝える。初め小山戸、かもえ谷、山口神 社の地に祀られた自然神で、また農耕神とし て、大和川、木津川の水源の神として、天平2年 「神戸」を寄せられ、仁寿2年官社に列せられ、貞観元年正五位下に進められている。延喜式で は大社に列し月次新嘗の官幣を受けている。平安時代の中期、興福寺喜多院の荘園が当地方(都介郷)に成立し、水分神は荘園の鎮守として天禄2年9月25日現在地に遷し祀られた。 鎌倉初期喜多院は大乗院領となり、領内に成長した、武士は氏人となり、当社は都介郷の水の神として崇敬せられた。
本殿重要文化財一間社春日造桧皮葺室町中期の造立
御霊舎本殿内に安置康生3年の墨書銘あり
石造狛犬一対高さ0.7m鎌倉末期の作

社頭掲示板



都祁水分神社

当社の歴史は、古来大和国の水分四社の一つで、飛鳥時代の創祀と伝えられています。
最初の鎮座地は、当社より3km南方の小山戸カモエ谷の都祁山口神社の地でした。
祭神は速秋津彦神・天水分神・国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊と称せられています。
この地に祀られた自然神で、また、農耕神として、大和川、木津川の水源の神として、奈良朝時代「神戸」を寄せられました。
平安時代仁寿2年、官社に列せられ、貞観元年には「正五位下」に進められました。
延喜式には大社に列し、月次、新嘗の官幣にあずかっています。
平安時代中期には、当地区に興福寺喜多院二階堂の荘園が成立しました。
藺生、小山戸、友田、南殿、白石、無山、向淵の七庄で開発が進むとともに、水分神は信仰を集め、天禄3年9月25日、荘園の中央友田へ遷し祀られることとなりました。
この社地は奈良朝時代に聖武天皇の行幸された堀越頓宮の伝承地であり、平安時代には伊勢齋宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもあります。
鎌倉時代の初め喜多院二階堂領は、同じ興福寺の大乗院領となり、水分神社も大乗院家の指示で、当地方に、成長した武士が氏人となり、護持されました。
これらのことは応永31年に作られた当社縁起に詳記されています。
室町中期の明応8年七ケ庄の反米によって造営されたのが現在の本殿です。
江戸時代には七庄の氏神として地方的な信仰をえ、殊に藤堂藩大庄屋、小山戸の北氏は当社の護持に一段と力をつくしています。明治維新の後、当社は郷社となり後県社に列せられました。
長い歴史の荒波に絶え、水分神社が護持されたことは、農耕神として霊験いちじるしい御神徳と一般の方々の手厚い信仰によるものです。

公式HP



都祁水分神社

天理駅より奈良交通バス室生口大野行友田下車約五分の地の坂窪山に鎮座する。祭神は速秋津彦命・天之水分神で『延喜式』神名帳に式内大社として登載されている。大和高原から流出する木津川上流の布目川や大和川上流の初瀬川の水を司るのが都祁水分の神で『延喜式』祈年祭祝詞に「水分に坐す神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して」とある都祁水分神である。『続日本後紀』の承和7年(840)に従五位下を『文徳実録』の仁寿2年(852)七月官社に列し、『三代実録』の貞観元年(859)正月正五位下を奉授、同年9月8日風雨を祈って遣使奉幣とある。なお前記『延喜式』祈年祭の条では他の水分社と共に馬一匹を加えられている。
 当社の旧地は約2km南の小山戸の字カモエ谷に鎮まる都祁山口神社の社地にあったので当社を今も下宮と呼ぶと伝える。応永31年(1424)成立で、貞享元年(1684)書写の『水分大明神垂迹記』(久保家文書)に伊勢度会郡の人が御裳濯川の霊水を木壺に入れて大和国境に来た時、霊水が白竜となって飛昇、一つは宇陀水分神として鎮まり、一つは都祁水分として小山戸左高山に鎮まったという。その後天禄2年(971)小山戸への道が狭く道中乗馬に蹴おとされるので友田の坂窪山に遷座したと記している。今も小山戸の山口神社背後の屋根を進んだ急坂の上の大きな磐座を俗に御社尾さんと呼び、水分神が降臨した所との伝承がある。
 例祭は10月26日。以前は前日小山戸の上山宮(都祁山口神社境内の仮宮)への神輿渡御があったが、この神輿は康正3年(1457)の造立で県指定重文。本殿は国の重文。
 境内北方に閼伽井・藤井・日賀井の三井があり『万葉集』巻の一の「山辺の御井を見がてり神風の伊勢少女ども相見つるかも」の御井の伝との説がある。

奈良県史



金銅装神輿

奈良県指定文化財
金銅装神輿 一基
床板に康正3年丁丑9月25日造立之などの墨書がある
附祭礼板絵 一面
祭礼絵巻 一巻
都祁水分神社に伝わる神輿は、床板の墨書銘より、康正3年、(1457年)に造られたことがわかる室町時代中期の作です。明治の初期までは、毎年9月に行われる水分祭礼に実際用いられていたと伝えられていますが、そのわりに保存状態は良好で、内部には製作当時の彩色も残っています。長押の飾り金具や、屋根に吊る風鐸などは失われていますが、神輿の四面にとりつけられた十二面の銅製鏡が今日別に保存されていて、当初の装飾豊かな姿がしのばれます。
当神社には、この神輿の描かれた祭礼板絵一面と祭礼絵巻一巻が伝わり、実際に祭礼に用いられた様子がうかがわれます。祭礼板絵一面と祭礼絵巻一巻は、本神輿を知る上で貴重な資料となっています。
昭和50年3月31日指定
都祁村教育委員会

社頭掲示板



水分神社

みくまりじんじや 水分神は、流水を司る神である。「クマリ」は「配り」を意味する。この神は、速秋津日子・速秋津比売二神の御子神とされ、天之水分神と国之水分神の二柱がある。この水分神を奉斎する神社が、水分神社で、『延喜式神名帳』を見ると、大和国に葛木水分神社、吉野水分神社、宇太水分神社、都祁水分神社の四社、河内国に建水分神社、摂津国に天水分豊浦命神社の名が見えている。また『続日本紀』に「吉野水分峯ノ神」、『三代実録』に「安芸国水分天神」とあることから、わが國において、古くより各地に、水分神を奉斎した神社が少なくなかったといえよう。
『延喜式』収載の祈年祭及び六月の月次祭祝詞に「水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁。葛木と御名は白して辞竟へまつらば云々」とあり、朝廷により、豊稔を祈請されていたことがわかる。後世、「クマリ」が詑って「コモリ」ともいわれ、子守明神としての信仰をも生むに至った。
▽都祁水分神社 奈良県山辺部都祁村友田。
旧県社。速秋津彦命・大国魂命・天之水分神・天久比著母押命を祀る。仁寿2年(851)官社に列し、貞観元年(859)正五位下、延喜の制、名神大社に列した。例祭10月26日。

神社辞典



郷社 都祁水分神社

祭神 速秋津彦命
相殿 大國魂命
本社祭神は古事記、延喜式及当社文書、其他の国史に依り、天之水分神國之水分神たること明かなれとも、明細帳の記載する所に依り、速秋津彦命として姑く其説に随ひ置きぬ。
創建年代詳ならす、文徳天皇仁寿2年7月官社に列せられ(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より正五位下に進み、同9月庚申雨風の御祈の為に使を遣して幣を奉らる(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣及祈雨の奉幣に預る、即祈年祭水分神四座の一也(延喜式)近隣五ケ村の氏神たり(大和志)覈録に「鞆田村に在す(大和志、同名所図会)式一(四時祭上)祈年祭條に、竹渓水分加馬一匹、同三(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々都祁水分社一座云々」とあり、明治4年郷社に列せらる、相殿なる大國魂命は同村大字來迎寺村に鎮座ありし國津神社を、明治40年10月6日本社へ遷座せしものなり(社記)。
社殿は本殿、拝殿、神饌所、回廊、神輿含、舞台等ありて、結構実に壮麗を極む、特に春日形向拝附の本殿は花園天皇康正3年9月25日の造営にして、明治40年8月特別保護建造物となれり、境内8469坪(官有地第一種)あり、天神山の麓に位し、蒼樹鬱蒼として繁茂し、実に千古の神境たり、宝物は足利時代の作に係る神輿一基あり。

明治神社誌料



都祁水分神社 大月次新嘗

都祁は假字也、和名鈔(郷名部)都介、」水分は美久麻理と訓べし、○祭神天水分神○靹田村に在す、(大和志、同名所図会)、〇式一(四時祭上)祈年祭條に、竹渓水分加馬一匹、」同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々
都祁水分社一座、○当國四処水分の一座也、■は吉野水分社の下に詳也、
類社
当國吉野郡吉野水分神社の下見合すべし
神位
続日本後紀、承和7年10月己酉、奉授无位水分神從五位下、(此叙位の事、吉野郡吉野水分神社の下見合すべし、)三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下都祁水分神正五位下、
官幣
三代實録、貞観元年9月8日庚申、大和国都祁水分神、遣使奉幣、為風雨祈焉、

神社覈録



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