南に和田丘、西に畝傍山、東南に明日香の甘梼丘などを近望する小平地の中心にある。大仙寺の南に隣接している。 もと飛鳥川近辺の字古宮に鎮座していたが、慶長年間(1596-1615)洪水のため現地へ遷という。 三代實録清和天皇貞観9年(867)には「馬立伊勢部田中神」とあり、御歳神社がいつ馬立伊勢部田中神社になったか不詳。社頭掲示板では「延喜の領幣に漏れたるを見れば」とあり、当時より御歳神社とは別社か、後に御歳神社を合祀したか。 御歳神社であれば本来は豊受姫命を祀るのであつたのであったが、後世で他の神々を合祀するに至り、八幡社をも配祀し、『大和志』に記するように、八幡神が主座を占める事ともなつた。 明治維新の後も同じく八幡神社と呼び、明治41年には村社八幡神社として指定された。しかし国史現在社としての名を復そうとする運動があり、大正8年に馬立伊勢部田中神社と改めた。 式内の御歳神社に比定した理由は、他に御歳神社らしい神社が見あたらない事、当社の祭神に豐受姫命の名が見え、御歳神社らしい、とのことによる。 |
由緒 当社、創立の詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。「清和天皇貞観9年正月25日大和国正六位上、馬立伊勢部田中神從五位下」とある。 されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く不振の状況におちいったことが察せられる。 又、位置は現今大字和田にあれども社名は馬立伊勢部田中神社と称している。昔から和田方の所伝によれば、当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと然るに古宮の地は、古代豊浦小墾田宮の故地にして名称の起りも故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかったであろう。 その地古宮付近に豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の址なりと言うのも是亦附会したものと言わざるを得ない。 社殿の構造は三間社流造りにて、中央は八幡宮、左豊受姫社、右は春日社を奉祀せり。 後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社と配祀し、後、八幡宮が却って本社の地住を占め八幡宮と称するに至った。 徳川中世に至っても尚八幡宮と称し、(石灯籠)明治41年10月2日にも村社八幡神社として指定された。 その後国史見在社の古名に復すべく出願し、大正8年11月に前指定を取り消して馬立伊勢部田中神社として指定された。 社頭掲示板 |
馬立伊勢部田中神社 田中・和田・栄和町の接点に近い和田領に西面して鎮座する。豊受姫命・誉田別命・天児屋根命を祀る旧指定村社であり、国史見在社である。 『三代実録』巻十四清和天皇の貞観9年(867)正月25日丙寅。「授 大和国正六位上馬立伊勢部田中神従五位下」とある。当社の所伝では、元字舌宮の地に鎮座していたが、慶長年間(1596−1615)飛鳥川の洪水で流され、今の社地に遷座したという。『高市郡神社誌』にとると、古宮とは古代豊浦の故地を指すが、当社との交渉がないといわれている。『大和志』は「昔在和田村後遷田中村界 今称八幡 二村共祭」とある。 現在三間社の本殿中央に八幡宮、左に春日神を祀るが、本来の祭神は豊受姫命であったとみられる。それが後世時流にならって春日神と八幡神を配祀し、却って八幡紳を主神とするようになった。このことは、現存の石灯籠の刻銘によっても知られる。 広吉家文書(『旧橿原市史』資料編)によると、延宝3卯年(1675)に当社について「除地市、鎮守八幡宮・天照大神宮・春日大明神、田中和田立会』となっているが、明治の頃も八幡神社と呼び、同41年には、八幡神社名で村社に指定を受けている。その後国史見在社の古名に復すべく出願、遂に大正8年11月に前指定を取消して、馬立伊勢田中神社となった。 本殿は流造朱塗の三間社で銅板葺。桁行2.66m、梁行1.93m。 例祭は10月17日。3月末の祈年祭、7月上旬の早苗振祭、例祭(夜宮)には御湯行事が行われる。宮座は内田中に四組、外田中五組のところへ新講が加わった。和田・栄和町はそれぞれ一組である。石灯籠中最古のものは「八幡宮御宝前 寛文2年(1662)8月吉日和田村敬白」との刻銘のものである。 奈良県史 |
御歳神社 鍬靱 御蔵は美止之と訓べし○祭神御年神○在所詳ならず 類社 当國葛上郡葛木坐御歳神(名神大月次新嘗) 神社覈録 |