飛鳥川中流東岸、堤防の下の低地に鎮座している。 藤原宮南方上飛騨町日高山の八幡宮が旧地とも伝い、室町時代の『五郡神社記』には「鷺栖神社一座在賀美郷鳥形山山尾」とある。 飛鳥川は歴史上その流路が度々変遷してきた。従って当社も時期こそ明らかではないが、飛鳥川の集中豪雨的大氾濫によつて神社が流れ移つたものであるとの伝承がある。 祭神も変転し、始めは春日神、即ち天児屋根命を祀つていたものであろう。しかし後代皇大神と八幡神の二神を合祠し、江戸時代後期末期には、八幡神が主座となり、天児屋根命は皇大神と共に脇座とせられていたが、明治12年に至つて再び主祭神を春日神とする事に改められた。 「鷺栖神社」は中臣氏の氏神として祀られていた神社で、飛鳥の鳥形山(現在の飛鳥坐神社が鎮座する山)にあったとの伝もある。 |
鷺栖神社由緒略記 安産の守護神 鎭座地 元、奈良縣高市郡畝傍町大字四分門之脇 現在、奈良縣橿原市四分町305番地 御祭神 右殿 天児屋根命 中殿 誉田別命 左殿 天照皇太神 境内面積 1488坪あります 例祭 9月15日 當社は里人鷺栖八幡と稱し延喜式神名帳鷺栖神社靭とあり、古事記垂仁天皇紀の段に鷺栖池の記事と釋日本紀所引氏族略記には鷺栖坂の記事も玉林抄に按するに鷺栖の地名今四分村に在りと云ふ又、池坂も神社の附近にありました。 四分の地名は昔遊部と云ひましたがしらずしらずの永い間に四分と云ふ名になりました。又上記御祭神をもって大和三山の中心地点に創立されたのでありますが、その年代は詳かでありませぬ。しかし、延喜式内社としてふるくからひろく知られてゐることから考へてみると、たしかに千数百年以前の創立にかかるものとおもはれ、まさに藤原京以前の旧社であることは、うたがい得ぬ事実であります。 古事記によれば垂仁天皇の皇子たる本牟智和気皇子が出雲大社に御参拝の折、ここにおたちよりになり御祈願あらせられたことになっております。 なほ、大和志巻十四に「鷺栖神四分村に在り、中古より鷺栖八幡と称せられ武神として崇敬高く、次で安産の守護神ともなり地方人からあがめられた」といふ意味あひのことが記されています。なほ同じく大和志に「鷺栖八幡」と称し、城殿、小房、縄手、醍醐、四分の五大字で祭祀にあづかるといふことが記されて居ます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
万葉歌碑 柿本朝臣人麻 ひさかたの 天知らしぬる 君ゆえに日月も知らず 戀ひ渡るかも 今は、薨去されて天をお治めになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつずけるわれわれである。という意味です。 この碑文は飛鳥寺住職山本雨宝氏による 橿原市教育委員会 社頭掲示板 |
郷社 鷺栖神社 祭神 天児屋根命 不詳 大和の地は、もと早くより開けしところなれば、神代の神を祭れる所多し、此の社もまだ藤氏の遠祖天児屋根命を祀れり、されど創立年代詳ならす、神祇志料に、「垂仁天皇の御宇天皇、本牟智和氣御子の爲に鷺栖池の樹に栖める鷺を宇気比落し、字氣比活しつるは蓋此神に祈りし也と云へり(古事記)醍醐天皇延喜の制、祈年祭靭一口を加へ奉る(廷喜式)俗に鷺栖八幡宮と称し、城戸、高殿、醍醐、縄手等の氏神なり(大和志、大和名所図絵)明治6年郷社に列せらる、 社殿は本殿。拝殿等あり、境内902坪(官有地第一種)、畝火山の東麓に位し、藤原宮跡、橿原神宮等其近傍にあり、頗る名勝の地たり。 明治神社誌料 |
鷺栖神社 鍬 鷺栖は佐支須と訓べし〇祭神詳ならず〇四分村に在す、今鷺栖八幡宮と称す、(大和志、同名所図会)、○古事記(垂仁段)住是鷺巣池之樹鷺乎、宇氣比落、如此詔之時、其鷺堕地死、又詔之宇氣比活爾者、更活、 神社覈録 |