曽我川の東岸に鎮座し、社叢大きい。平野が広がり、畝傍山に近く、二上山、葛城金剛山系がよく見える。 「出雲国造神賀詞」に「事代主命能御魂乎宇奈提乃神奈備爾坐」とあり、この宇奈提は雲梯のことであるという。 『日本書紀』壬申の年に高市郡領高市県主許梅が神懸りして言つた言葉の中に、「われは高市社にをる、名は事代主神」という記事がある。 摂津国住吉神社には、毎年2月17日の祈年祭、12月13日の神嘗祭の両日における各々三日前に、畝傍山口神社境内における埴取の神事があり、主係一名・従者三名が、先づ当高市御県坐鴨事代主神社(現今の川俣神社)に来り、装束を整え、修祓し、神前に昆布の神饌を供し、祝詞を奏して後、畝傍山に上つて埴取りを行う事を恒例としている。この社は以上の事から、地元では「装束の宮」と俗称されている。 同じ雲梯町に鎮座する木葉神社(式内川俣神社に比定)との間に混乱が見られ、当社が河俣神社と称した経緯不詳。 |
万葉集 真鳥住む卯名手の神社(もり)の管の根を衣に書きつけ着せむ子もがも (巻七) 思はぬを思ふといはば真鳥住む卯名手の社の神し知らさむ (巻一二) (訳1/鷲の住む卯名手神社の霊力宿る菅の根を衣にかきつけて、それを着せる子がほしいものだ) (訳2/思ってもいないのに思っていますなどと言っても、真鳥住む卯名手の神社の神様がその嘘をご存じです。私は嘘をついてはおりません) |
宇那提の森 市指定天然記念物 萬葉集を始め数々の歌集に詠まれ歌枕として有名な宇那提の森である。昔は此のあたり一面うっ蒼とした水辺の森林であったが戦国の頃保塁の用に供するため宇喜多氏によって伐採され此の一本の椋の木が残された。樹齢七百年と言われる貞享5年(1689)森家の家老長尾隼人は石碑を建て之を顕彰した。 万葉集巻七 真鳥住む宇那提の森の管の根を衣に書きつけ着せむ児もがも 同巻十二 思はぬを想ふといはば真鳥住む宇那提の森の神し知らさむ 社頭掲示板 |
河俣神社 『延喜式』神名帳登載の式内大社を、同じ式内大社の川俣神社と類似の社名で呼ばれる雲梯字宮ノ脇689鎮座の川股神社に比定する説が有力である。今川股神社と呼ぶ社は近鉄南大阪線坊城駅の北東約1.3Kmの位置で、祭神は鴨八重事代主神。住吉大社(摂津)から畝傍山の埴土取りにくる『埴使神事』の神官がこの社で装束を整える風習から古来装束の宮とも呼ばれている。 『延喜式』神名帳高市郡五十四座中筆頭に登載されているが、『出雲国造神賀詞』に大穴持命の子神阿遅須伎高孫根命を葛城に、事代主命を宇奈提に、加夜奈流美命を飛鳥へとそれぞれ神奈備において天皇の守護神としたとあるがこの三神は共に大穴持命の同族紳である。創建年代は明らかでないが、『日本書紀』天武天皇元年(672)壬申の乱に、高市郡大領高市県主許梅が神がかりして『吾は高市社に居る、名は事代主神なり』と神が予言したことが的中して戦勝したとある。戦勝後天皇は高市社に許梅を遣わして幣を奉らしめ、品位を奉授したというが高市社とは当社だとの説は正しいと思うし、この頃概に当社が世に知られていたことがわかる。 『万葉集』に『真鳥住む卯名手の神社の菅の根を 衣にかきつけ着せむ子もがも』(巻七1344)『思はぬを思ふといはば真鳥住む 卯名手の社の神し知らさむ』(巻十二3100)と詠まれている。『三代実録』の貞観元年(869)正月二十七日従二位の高市御県鴨八重事代主神が従一位に昇叙されている。なお同じ項に川股神に従五位上昇叙と出ているのは、当社西南300メートルの初穂寺に鎮座して式内川俣神社三座(並大。次新嘗)に比定されている木葉神社のことである。当社の例祭は10月17日。 奈良県史 |
高市御縣坐鴨事代主神社 大月次新嘗 高市は郡名に同じ、御懸は美阿賀多、鴨事代主は加茂古止之呂奴志と訓べし、〇祭神明か也○高殿村に在す、今大宮と称す、又名鴨公森、(大和志、同名所図会)、〇旧事紀、(地神本紀)都味歯八重事代主神、坐倭国高市郡高市社、亦云甘南備飛鳥社、」日本紀、天武天皇元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、■忽口閇而不能言也、三日之後、方著神以言、吾者高市社所居、名事代主神也、又捧幣而礼祭高市身狭二社之神、然後、壹伎史韓國自大坂來、故時人曰、二社神所教之辞適是也、軍政既訖、將軍等挙是三神(三神は高市、身狭、村屋をいふ也、)教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉 神位 三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從二位高市御縣鴨八重事代主神從一位、 神社覈録 |